+駝 鳥 2004 - 2013 +

はてなダイアリーのアーカイブです。過去に水俣病について考察したエントリを公開することといたしました。現在はブログの執筆はしておりません。

雑感

水俣病認定報道、もう誰も本当のことをいわなくなったか。
認定基準を変えないことに怒るのではなく、なぜ変えられないのか、その隠れたロジックを知るべき。認定基準が変えられないのは、公害健康被害補償法に基づく【水俣病】認定が1973年の補償協定(チッソと一部の患者団体)に縛られているからだ。公健法上の水俣病認定をうければ、当時補償協定の当事者でなかったとしても補償協定の枠組みで補償金を受け取れる仕組みがあった。
補償協定は重症患者を念頭においたもので、補償金は1800万円と高額だった。
症状の軽い患者には1600〜1800万円もの補償金をチッソから渡すわけにはいかない、そんなことをすれば、これまでの政治解決(1995年)の260万円、第二の政治解決(2009年)の200万円などと、すべて公平さを欠いてしまう。
結局、問題は公健法上の認定による救済が重症患者だけを対象としており、中程度、軽症の患者を切り捨てる仕組みであったことに目をつぶりつづけたことがよくなかったのだろう。
行政に【水俣病】といえなくしてしまっていたのはなぜなのか。よく考えてみてほしい。



ボストンテロ報道、アメリカ人は年間8千人以上もの銃の犠牲よりも、
10年に一回起こるテロのほうが重大で恐ろしい結果と思っているのだろうか。
それとも、銃社会について口にすると、銃規制の対立を煽ってしまうのが怖いのか。
犯人の動機、イスラム教のせいといわんばかり。おかしいと思わないのか。

初めての和解

水俣病の半世紀の歴史は、訴訟で政府に救済を求める被害者を国家が徹底的に敵視しつづけた歩みであった。
公権力がこれまでにやってきたことは、行政責任を問わないことを前提にした「最終解決」の提示だった。
訴訟派を敵視してきたこれまで半世紀の政府の対応が途方もない年月をへて、ようやく解決へむけて転換した、という話。

新潟水俣病で和解 未認定患者4次訴訟 国、初めて責任認める

写真
水俣病の新潟4次訴訟の和解が成立し垂れ幕を掲げる原告弁護団=3日午後、新潟地裁
 新潟県阿賀野川流域で1960年代に発生した有機水銀中毒の新潟水俣病をめぐり、未認定の患者ら173人が国と原因企業の昭和電工(東京)に損害賠償を求めた新潟4次訴訟は3日、昭電が1人210万円の一時金を支払うことなどで、新潟地裁(草野真人裁判長)で和解が成立した。
 国の責任が確定した2004年の水俣病関西訴訟の最高裁判決以降、未認定患者が起こした集団訴訟で国が責任を認め、和解するのは初めて。
 チッソ(東京)が不知火海一帯で引き起こした水俣病をめぐっても、熊本地裁など3地裁で今月下旬、和解が成立する見通し。
 和解成立後に原告団新潟市内で集会を開き、引き続き全被害者の救済に向けた活動を続けることで一致した。
 和解条項は、政府が昨年4月、水俣病特別措置法に基づき決めた救済策に沿う内容。昭電は一時金のほか原告団に2億円の団体加算金を支払い、国などは原告に月額1万2900〜1万7700円の療養手当を支給する。
 昭電会長は新潟を訪れ責任とおわびを表明し、国は治療に関する調査研究を行うほか、昭電と協力して、地域振興や健康増進事業の実施に努める。履行状況を確認するため原告と国、昭電が協議することも明記した。
 原告らは「阿賀野患者会」(山崎昭正会長)に所属。2009年6月以降、1人880万円の賠償を求め提訴し、昨年10月、双方が和解に合意していた。 新潟地裁ではほかに、未認定患者ら20人が国と県、昭和電工を相手取った3次訴訟が、和解でなく判決を求めて係争中。

●努力、決断に敬意

 松本龍環境相の話 水俣病をめぐる訴訟では、国と原告の間で初の和解成立で、関係者の努力や決断に敬意を表する。熊本、鹿児島にとどまらず、さらに後年、新潟で第2の水俣病が引き起こされたことは誠に痛恨の極み。今後は和解に基づく支給や地域振興、福祉の充実などに努める。
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20110304006.shtml
熊本日日新聞 2011年03月04日

公健法上の水俣病認定基準を否定する地裁判決

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100716/trl1007161557006-n1.htm
水俣病、国の認定基準を否定 大阪地裁 (1/2ページ)
2010.7.16 15:55

 関西水俣病訴訟の最高裁判決(平成16年)で勝訴しながら、その後も行政から水俣病と認定されなかった熊本県出身の女性(84)=大阪府豊中市=が国と熊本県水俣病認定を求めた訴訟の判決が16日、大阪地裁であった。山田明裁判長は熊本県に対し、原告の認定申請を棄却した処分を取り消して水俣病と認定するよう命じた。

 山田裁判長は判決理由で、複数の症状の組み合わせを必要とする昭和52年からの国の認定基準について「医学的正当性を裏付ける的確な証拠は存在しない」と指摘。「組み合わせを満たさない場合でも個別事情を総合考慮することで水俣病にかかっているものと認める余地がある」として否定した。水俣病被害拡大を招いた行政の責任を認めた最高裁判決後、現行基準を否定した司法判断は初めて。

 未認定患者をめぐっては、昨年施行の特別措置法に基づき、認定申請や訴訟の取り下げなどを条件に早期救済が動き出したばかり。今回の判決が大きな影響を与える可能性がある。

 女性は熊本県水俣市に生まれ、昭和46年に兵庫県尼崎市に転居。53年、熊本県水俣病認定を申請したが棄却され、63年に関西水俣病訴訟に参加した。最高裁の勝訴判決が確定した後も国は認定基準を見直さず、熊本県の棄却処分に対する女性の不服審査請求も退けたため、女性は平成19年5月に提訴した。

 訴訟では、原告側は認定基準を「医学的根拠がないうえ、認定幅を不当に狭めている」と指摘。「女性には手足の感覚障害があり、親族にも認定患者がいる。(最高裁が示した)司法基準の水俣病であることは明らか」と基準の見直しを求めた。

 一方、被告の国側は「最高裁判決の基準は医学的にあり得ない」とし、国の認定基準について「水俣病認定に複数の症状の組み合わせが必要とする基準は医学的な根拠があり、現在でも合理的だ」と反論していた。

ここでいう認定基準とは、あくまで公害健康被害補償法上、救済をうける被害者の範囲を絞り込んだものにすぎない。昭和52年条件とは、昭和48年のチッソと患者団体との補償協定をうけて、公健法上の認定を受ければチッソから約1600万円の補償金をもらえる仕組みになったことをうけて、従来の認定基準を大幅に厳しくしたものである。その背景にはチッソの補償破産の懸念があったと考えられる。チッソへの金融支援が始まったのはこの年からである。
結果として、認定基準は被害の程度の重い患者のみをすくいあげ、重篤には至らないような大量の被害者救済を取りこぼすことになった。

チッソ排水原因の健康被害が軽微なものから重篤なものまで幅広く存在するのはたやすく想像がつくはずであり、そもそも司法は被害と原因との因果関係を終局的に決定する機関とみなされているのであるから、地裁判決が04年の最高裁判決に従うのは当たり前の話である。

さらに根本的なことをいえば、チッソ排水による被害者の分布を国は一度たりとも調査しなかったくせに、公健法上の「水俣病」だけを水俣病患者と認識しつづけ、取りこぼされた被害者が救済を求めて訴訟を提起してきたのをことごとくはねつけ続けていた。
裁判所の和解勧告にも耳を貸さない政府の姿勢は、あちこちで提起された水俣病の裁判を延々と長引かせてきた。
政府は1995年に最終的な解決と称して、水俣病と認定されない被害者の救済案を提示した。なにしろ「最終」なのだから、この機会を逃したらもう救済はないとプレッシャーをかけられた一部の被害者たちは次々にこの救済案を受諾した。
しかし、この95年解決は、さらなる被害者の分断を生み、救済の仕組みを複雑化する端緒にすぎなかったかもしれない。
一部の被害者はこうした救済策をのまずに、裁判を継続したり、あくまで行政認定を求め続けてきた。それからさらに長い年月が過ぎ、2004年になってようやく、最高裁水俣病被害拡大の行政責任を認め、さらに行政認定の基準を下回る程度の被害者の救済に道を開いた。
公健法の認定基準を否定された環境省は大慌てしながらも、結局は認定基準を維持しつづけた。
そのかわりに政府が実施したのは95年最終解決とほぼ同じ手法による被害者の掘り起こしと救済であった。
すなわち「水俣病」とは認定しないが、ある種の健康被害を救済するため、保健手帳や一時金を支給するというもの。
そして95年と同様に、認定申請および裁判闘争の取り下げを条件とし、政府側の紛争解決案に協力しない人は救済しないという傲慢な姿勢が貫かれた。

しかしチッソ排水による被害者とはいったいなんだろうか。

そもそも、チッソ排水に起因する健康被害の分布が調査されたことがないため、被害者の実数など誰にもわからなかった。行政としては救済を訴えてきた人だけを対象にあれこれ手当てをしてきたが、近年の原田正純氏らの調査によれば、水俣病との認識がないまま健康被害に苦しんできた数多くの被害者の存在が明るみになってきている。
政府がこのような動向に気がつかないはずはなく、それでもなお認定基準を変更しないのは、認定基準が昭和48年補償協定と連動しているからである。つまり軽微な被害者を認定してしまうと、1600万円という補償額と釣り合わないばかりでなく、大量の数の被害者を認定せざるを得なくなり、チッソの補償能力をこえてしまうからだ。これは政府が健康被害調査を実施しない理由のひとつといえるだろう。

結局のところ、政府の認定基準が民間の補償協定に縛られてしまっていることに大きな瑕疵がある。
本来、あらゆる損害額の算定は被害の程度に応じてなされるべきであるが、それができなくなってしまっている。
結果論ではあるが、当時、政府が被害の程度に応じて5段階ぐらいに認定基準を変更したとしたら、恐らく補償協定も政府の変更決定に促される形で、それに従い程度に応じた補償額の見直しという改定をせざるを得なくなっていたのではないだろうか。
しかしチッソ側にも、患者側にも差し迫った救済の要求があり、そういうインセンティブは働かなかったかもしれない。

今回の地裁判決のインパクトは、認定基準の矛盾をあからさまに表明するものであり、さらなる混乱が予想される。
しかし政府には考えるべきことがあるはずだ。



7月17日追記

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100717-OYT1T00997.htm
水俣病地裁判決 被害者救済を着実に進めよ(7月18日付・読売社説)

 最高裁水俣病と認めたのに、認定基準を改めない行政の姿勢はおかしい――。大阪府の女性がそう訴えていた裁判で、大阪地裁は「水俣病と認めるべきだ」とする女性側勝訴の判決を言い渡した。

 行政と司法で水俣病と認める尺度が違う「二重基準」の問題を、改めて浮き彫りにした判決だ。

 水俣病の未認定患者問題では、原因企業のチッソが一人210万円の一時金を支払うといった救済策を、多くの被害者が受け入れている。熊本地裁での集団訴訟でも、原告と国、熊本県チッソが和解することで合意している。

 これにより、水俣病問題は全面解決に向けて大きく前進したが、今回の判決で、より多くの補償を求めて救済策を受け入れず、司法に患者認定を求める被害者が増える可能性もある。

 水俣病と認めるための国の認定基準は1977年(昭和52年)に策定された。「感覚障害に加え、運動失調や視野狭さくなど、複数症状の組み合わせが必要」とする厳格な内容だ。

 これにより、認定申請しても退けられる未認定患者が数多く存在するようになった。原告の女性も「症状は手足の感覚障害だけ」と熊本県に棄却された。

 このため女性は、国などに損害賠償を求めた関西水俣病訴訟に参加し、2004年の最高裁判決で勝訴した。症状の組み合わせがなくても、家族に認定患者がおり、手足の感覚障害があれば水俣病と認める緩やかな判断だった。

 だが、国は「最高裁は認定基準の見直しには言及していない」として基準を見直さず、熊本県は女性を水俣病と認めなかったため、今回の訴訟を起こした。

 大阪地裁判決は、国の認定基準について「意義は否定できない」としながらも、「要件を満たさないという一事で水俣病にかかっていないとはいえない」との判断を示した。最高裁判決に沿った考え方といえよう。

 ただ、国が認定基準を見直せば、新たな認定患者に対する補償金などが必要になる。チッソには巨額の財政負担が加わるだろう。未認定患者の救済策全体が滞ってしまう懸念も生じる。

 水俣病問題をここまでこじれさせた責任が、未認定患者に対する十分な救済策を施してこなかった国にもあることは間違いない。国には現在の救済策を確実に遂行していくことが求められる。

 被害者の高齢化が進む。最も大切なのは早期解決であろう。
(2010年7月18日01時06分 読売新聞)

読売社説の太字で強調した一文の意味を理解するには、さきに書いたような背景知識が必要である。
つまり、チッソ排水との因果関係どおりの被害者を水俣病患者として認めてしまうと、チッソの補償能力を超えてしまうから被害者の範囲を限定する役割を果たしてきたのが認定基準だったのだ。


認定義務付け訴訟判決要旨

 大阪府の女性が水俣病の患者認定を求めた訴訟で、大阪地裁が16日言い渡した判決の要旨は次の通り。

 ▽水俣病認定の枠組み

 公害健康被害補償法施行令で定める水俣病とは、魚介類に蓄積されたメチル水銀を経口摂取することにより起こる神経系疾患を言う。水俣病と認められるかを判断するに当たって、医学的知見は経験則の一つにすぎない。

 水俣病にかかっていると認められるためには、疾患が魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取によって招かれたことの高度の蓋然(がいぜん)性が証明されることが必要で、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることが必要と解すべきだ。

 ▽77年判断条件

 1977年の判断条件は、手足の末端の感覚障害のみでは足りず、ほかの症状と一定の組み合わせを要求している。この組み合わせがない限り、水俣病と認められないとする国らの主張は、医学的正当性を裏付ける的確な証拠が存在しない。水俣病の主要な症状は水俣病に特異なものではないが、ほかの原因によるものではないと鑑別できるのであれば、水俣病と診断しても差し支えないはずだ。

 組み合わせを満たさない場合でも、症状の内容や発現の経緯、メチル水銀に対する暴露状況などの疫学的条件に係る個別の事情を総合的に考慮することにより、水俣病にかかっていると認める余地がある。

 ▽水俣病の感覚障害

 手足の末端の感覚障害は基礎的、中核的な症状であり、水俣病の共通項と位置付けることができる。軽症例においては、臨床上把握し得る神経症状がこの感覚障害のみである水俣病も存在するとみられ、診断する重要な判断要素となるのは否定できない。

 このような場合、メチル水銀に対する暴露歴の疫学的条件のほか、症状が水俣病の特徴を備えているかという点(発現部位や発現時期、原因が中枢神経の障害にあることをうかがわせる事情の有無)や、水俣病以外の原因によることを疑わせる事情の有無などを総合的に検討して、水俣病と認められるか否かを判断すべきである。

 ▽原告の事実関係

 原告に明らかに認められる症状は手足の末端の感覚障害のみだ。しかし、生活歴から認められるメチル水銀の摂取状況、症状の内容や出現経緯、ほかに感覚障害の原因となる疾患がないこと、水俣病以外の原因が疑われる状況にないことなどを総合的に考慮すれば、原告の感覚障害は、社会通念に照らし、魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取によって起きたものであると認めるのが相当であり、原告は水俣病にかかっていたと認められる。


熊本日日新聞 2010年07月17日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20100717003.shtml

識者談話

●画期的な判決だ 丸山定巳・熊本大名誉教授(地域社会学

 疫学的条件を満たし、感覚障害がある場合だけでも水俣病と認定できるとした点で画期的な判決だ。症状の組み合わせを必要とする国の1977年の判断条件に拘束されず、水俣病の認定は事実から出発すべきであると判断している。95年の未認定患者救済策や現在進行中の「第2の政治解決」の対象者らが今回の判決の基準で申請すれば、認定患者はまだまだ増え、補償金そのものが非常に大きくなる。原因企業チッソは、現在進めている補償部門と事業部門への分社化だけでは済まず、補償の確保には新たな仕組みが必要になる可能性もある。

●無理のない理論 富樫貞夫・熊本大名誉教授(環境法)

 公害健康被害補償法の趣旨に照らし、認定が本来どうあるべきかとの出発点に立ち返った画期的な判決。常識的で無理のない理論立てで結論を出している。「医学的知見は認定の際の材料の一つに過ぎない」とした点が象徴的。病像論に対する当否とは別次元でとらえ、「認定=診断」との考え方の行政に、根本的な見直しを迫っている。未認定の被害者に残された時間は少なく、国は判決を真摯[しんし]に受け止めるべきだ。現行の認定基準を前提にした特措法による救済制度の妥当性も問われる。

●踏み込んだ指摘 原田正純医師(神経精神医学)

 非常に妥当で、当然の判決。認定基準の問題点を何十年も指摘してきたわれわれからすれば驚くことではないが、これまでの裁判より一歩踏み込んでいる。感覚障害のみでも疫学的条件があれば水俣病と認められると判断されたことで、水俣病かどうかの結論をあいまいにしたまま低額で和解を進める今の救済の在り方が正当かどうかが問われることになる。国は裁判所の判断と医学的な判断は違うと開き直るだろうが、判決を真摯[しんし]に受け止めるべきだ。

●国会は反省して 津田敏秀・岡山大大学院教授(環境疫学)

 水俣病の患者認定は、ほかの公害や食中毒事件と比べて異常に狭い基準で診る作業を続けてきた。それをようやく普通に近づける妥当な判決。環境省の主張には医学的根拠がないことをずばりと指摘している。そんな環境省の主張に基づいて医学的な検討もないまま特措法を可決した国会は反省してほしい。認定作業にかかわってきた学者たちにも責任がある。学会などの公の場で批判に応えるべきだ。


熊本日日新聞 2010年07月17日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20100717005.shtml

関係者談話

●基準の誤り裏付け 佐藤英樹・水俣病被害者互助会会長

 国などを相手に損害賠償請求訴訟を続けている私たちにとっても、大変意義のある判決。県がこれまで、間違った基準によって認定審査を続けてきたことが裏付けられた。

●スタンス変えない 園田昭人・水俣病不知火患者会弁護団

 国の1977年の判断条件を間違いとした判決は妥当。しかし、一地裁の判決だけで解決するほど問題は簡単ではなく、冷静に見ないといけない。判決を分析し、国の対応を注視する必要はあるが、熊本地裁での和解による解決を進める私たちのスタンスは変わらない。

●混乱と不公平生む 尾上利夫・水俣病出水の会会長

 裁判所は何で今ごろ、このような判決を出すのか。特措法による救済と和解が始まった中、現行の認定基準を否定すれば、大きな混乱と被害者間の不公平を生む。国が判決を受け入れるはずはなく、今さら認定基準が変わることもあってはならない。われわれは、ひたすら特措法での救済を受ける道を進むだけ。国も判決に惑わされず、救済と和解に力を注ぐべきだ。

●救済考え直すべき 高倉史朗・水俣病患者連合事務局長

 1977年の判断条件の医学的正当性が否定された意義は大きい。1995年の政治決着で患者認定を断念した人たちも、事実上は水俣病と認められたことになると思う。判決に照らし合わせれば、水俣病かどうかは分からないという前提で現在の特措法による救済を求めている人たちの中にも患者と認められる人は多いはず。救済のやり方を考え直すべきだ。


熊本日日新聞 2010年07月17日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20100717006.shtml

「めちゃくちゃ」「残念」 国と県、戸惑い隠せず

 水俣病の認定基準の妥当性を主張してきた国や県。16日午後、認定基準を否定する大阪地裁判決を聞き、環境省や県の幹部らは戸惑いの表情を隠せなかった。

 判決前、「勝ち負けは五分五分」と読んでいた環境省幹部は、国にとって厳しい一報に肩を落とした。別の幹部は「めちゃくちゃな判決だ」とぼやいた。

 担当課は判決から数時間、報道陣を寄せ付けずに分析を急いだ。小沢鋭仁環境相らへ報告された後、環境保健部の弥元伸也企画課長は「判決は個別の案件に対するもの。認定基準を否定する内容だと思うが、見直しまでは求めていない」と話した。

 国は5月、特別措置法による未認定患者の救済策に着手。だが今回の判決を機に、未認定患者が救済策から認定申請へと流れる可能性もある。弥元課長は「この判決が救済策にどう波及するかは分からない」と語った。

 一方、県も情報収集と分析に追われた。「原告勝訴」「県の処分の取り消し」など衝撃的な情報が入るたび、担当者が幹部や県議らに報告した。

 環境生活部長時代から4年以上、水俣病問題に携わる村田信一副知事は「私たちの主張が認められず残念」と沈痛な表情。特措法による救済や熊本地裁で進む和解手続きを挙げ「流れを止めてはいけない」と力説した。

 駒崎照雄環境生活部長は「判決は『症状の組み合わせがなければ水俣病ではない』という論法を認めていない。それが認定基準そのものまでを否定しているならば、大きな問題」と話した。県の水俣病認定審査会の岡嶋透会長は家族を通して「お話しすることはない」とコメントを避けた。

 原因企業チッソの東京本社には報道からの電話が相次いだ。担当者は「判決内容を確認してない。裁判の当事者ではないのでコメントできない」と繰り返した。(潮崎知博、亀井宏二、原大祐)


熊本日日新聞 2010年07月17日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20100717004.shtml

政府は水俣病の被害実態調査に着手すべき

水俣病の疑い、受診者の93% 不知火海沿岸住民調査

2009年10月30日1時42分

 水俣病被害の実態を把握するため、民間の医師らが熊本、鹿児島両県の不知火海沿岸で9月に行った「住民健康調査」(検診)の結果が29日発表された。受診者のうちデータ集計を許諾した974人の93%にあたる904人が「水俣病水俣病の疑い」と診断された。受診者の9割は、水俣病の検診を受けたのは初めて。そのほとんどに症状が認められた今回の結果は、潜在的な被害者がなお相当数いることをうかがわせる。

 水俣病問題では、公害健康被害補償法に基づく患者の認定(認定されると、加害企業チッソによる補償が受けられる)や、「患者」と行政は認めないが医療費の自己負担分を補助する救済の制度があるが、居住地域による枠が設けられている。チッソが有害な排水を止めた1968年の年末まで、その地域内に「相当期間」住んでいたことが前提条件だ。

 こうした地域別や年代別でみると、「地域外」の受診者213人のうち199人(93%)が「水俣病かその疑いがある」とされた。「69年以降の生まれや同年以降の転入者」では59人のうち51人(86%)が該当した。68年以前の世代の該当者は915人のうち853人(93%)だった。

 調査の実行委員会は「手足の感覚が鈍い」「胸や腹などの感覚が鈍い」「視野の左右が狭い」など、水俣病によくみられる五つの症状が一つでもある人を「水俣病かその疑い」と診断した。

 症状の出現率は、23%(視野が狭い)〜79%(手足の感覚が鈍い)。水銀汚染がない福岡、熊本、鹿児島各市の計172人に同様の検査をしたところ、こうした症状の出現率は0〜2%だった。これと比べると、不知火海沿岸は格段に高いことが分かった。

 今回の検診は9月20、21の両日、8市町の17会場で無料で行われ、1044人が実際に受診。974人は33〜92歳で、平均年齢は62歳だった。

 今回は、水俣病患者が56年に公式に確認されてから最大規模の検診。同規模の検診は被害者団体が中心になって87年11月に行い、1088人の78%が「水俣病かその疑い」と診断された。

 国が大規模な住民検診をしたことはないため、水俣病被害の全体像はいまだにわかっていない。田島一成・環境副大臣は今回の調査について「一定の関心を持って見守っている。内容を見させていただいてから見解を述べたい」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/1030/SEB200910290055.html

公式発見から半世紀以上も放置されてきた水俣病
いや、正確に言えば、原因企業も行政もそのつどそれなりの対応はしてきた。
しかし、それはいずれも誠意ある対応とはとてもいえないものだった。ざくっと振り返る。
・1956年、公式発見。
・1959年、水俣市長が仲介した見舞金契約→のちに公序良俗違反で無効との司法判断
・同年、チッソが排水浄化と偽ったインチキ除去装置を設置
・同年11月頃、官僚たちの夏通産省は高度経済成長を優先し、排水が原因としりつつ規制権限を不行使(排水黙認)
・1970年前後、高度経済成長の影で、日本社会のあちこちで噴出した公害に対して、山ほど公害対策立法が制定される
・1973年、患者団体がチッソに対して勝訴。チッソと患者団体との間で補償協定が締結される。以後、被害者は団体を問わず行政認定によりチッソから補償を受け取れるようになった。行政認定が被害者救済の窓口となった。
・地域差別のため、ひっそりと息を潜めて暮らしていた潜在患者が行政認定をもとめて殺到した。
・認定業務はパンクし、チッソは賠償倒産の瀬戸際に立たされた。
・1977年、ついにきわめてハードルの高い患者認定の足きり条件が環境庁通達により出される。一方、翌年から、政府は原因企業の倒産を防止するため金融支援を開始。
・一部の重症患者以外は行政認定を受けられる被害者はほとんどいなくなり、地獄のような日々がつづくなか、水俣病の解決方法をめぐり患者団体が分裂。
・裁判を通じて国の責任は常に問われてきたが、政府は一度たりとも話し合いのテーブルにつくことはなく、患者たちは次第に高齢化していった。
・1995年、政府が最終解決策を提示、一部の患者団体が受諾、一部は救済を拒否し、裁判闘争続行。そして声も上げられない大多数の患者がひっそりと暮らしていた。
・2004年、最高裁が「遅くとも59年11月には排水の規制権限を行使し得たのにしなかった」と行政責任を認める。また水俣病の判断基準を行政認定より大幅にひき下げた。
最高裁判決を受け、超高いハードルの認定基準を設けていた認定業務は完全にフリーズ。政府は責任を認め謝罪。保健手帳の給付などチマチマとした救済案を小出しするが、受け入れる被害者は少なかった。他方、認定申請や裁判による救済をもとめる原告数が急増。
・2007年、政府は事態打開のため、95年に引き続き二度目の「最終解決策」を工作するも、裁判闘争を続ける患者団体がいるかぎりチッソは条件を飲まないとして、あえなく頓挫。
・2009年、政府はついにチッソの分社化という切り札を出して、チッソを説得、ようやく最終解決案が法制化されたものの具体的な中身の決まっていない綱領的な立法にとどまった。

以上が水俣病の対応の歴史。

行政は、救済策を打ち出すたびに全面的な解決をうたった。しかし現実は被害者の分断をますますこじれさせ、これまでのさまざまな水俣病の救済策は交通整理されないまま現在にいたっている。
ここにきて政府は訴訟派と和解協議を始める意向をしめした。
訴訟派を敵視してきたこれまで半世紀の政府の対応の転換点かもしれない。

「可能であれば、和解による解決を図りたい」。田島一成環境副大臣が31日、水俣病訴訟の和解に向けた事前協議を進める意向を明らかにした。中略

 2005年の提訴時から和解も視野に活動してきた同会の大石利生会長は「提訴当時は小池(百合子)環境大臣が『和解には応じない』と言っていた。政権交代を実感する」。
熊本日日新聞社

が、問題はもっと本質的なところにある。

政府は毒水の排水を黙認し始めた1959年から水俣病チッソの排水による公害と認めた1968年はいうに及ばず、それ以降においても、一度たりとも実態調査をしてこなかった。
そして今もなおしていない。なんなのだろう、この不作為は。
04年に共犯者としての行政責任が初めて認められるまで、政府は被害者救済を加害企業に肩代わりしてやっているという意識だったのかもしれない。だからこそ暫定的な救済措置である行政認定は極めて重度の患者に限定されたものであった。
しかしながら政府自身も排水を黙殺した加害者であったとなると、ちょっと話が違う。症状の軽い人を見捨てる理由は何一つない。

これは自然災害に対する対応と比べると、問題は非常にはっきりする。
地震や土砂災害で被害状況がどうなっているかを把握しなかったら、対応は不可能。
被害状況の把握ーこの当たり前のことが水俣病においては完全に置き去りにされてしまっていた。
普通するでしょ?不知火海大丈夫なの?被害状況はどうなの?とかってことは。

今回の調査の結果では、潜在的な被害者は想像以上に広範囲かつ多数にのぼっていることが浮き彫りになった。

考えればわかることだが、有機水銀中毒の影響により日常生活になんらかの支障が生じている事態を被害と呼ぶならば、症状の強度が高い者だけを水俣病と定義し、強度の低い者を排除する線引きの是非は、最終的には司法判断によって決着がつけられなければならない。
被害の認定そのものは医学の判断ではなく司法判断だからだ。最高裁判決が04年10月に下された時点で、レビュー調査を開始すべきであった。

95年の政府解決策では、【水俣病の定義に当てはまらないが、有機水銀中毒の影響により障害をもっている】被害者を救済の射程にいれた。しかしそれは、自ら名乗り出た被害者で、なおかつ裁判等の他の救済手段を断念させることを条件とした厳しい選択肢であった。行政責任が認められる以前の話だ。
老齢化した被害者たちのなかには思い悩んだ挙句、95年の解決策を受諾する団体もあったが、それでもなお、声を上げられない被害者たちが不知火海にはいたのだ。

重症の患者はどうにか救済してきたものの、被害状況をろくすっぽ調査もせず漫然と中程度あるいは軽度の患者を切り捨ててきたのが、排水を黙認し続けた国と原因企業のこれまでの対応だったのだ。


一地方の中毒症にすぎなかった水俣病を半世紀にもわたる長大な歴史物語にしてしまった一因は日本という国そのものにある。

水俣病最終解決〜速やかな実態調査と恒久立法を

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090308k0000m070105000c.html

社説:水俣病最終解決 認定基準見直しはどうした

 自民、公明両党の水俣病に関するプロジェクトチームが6日、最終解決のための特別措置法案を了承した。水俣病は公式確認からまもなく53年となる。被害者の高齢化も進んでいる。そうしたことを勘案すれば、抜本的な救済を急ぐことは当然だ。問題はその内容である。

 第二次世界大戦後の経済復興から高度成長の過程で発生し、被害が拡大したのが水俣病である。責任は水銀をたれ流しにしたチッソ、それを規制しなかった行政が負っている。最終決着というのであれば、真に被害者の立場に立ったものでなければならない。ところが、与党の特措法案には、まだ問題が多い。

 第一は、公害健康被害補償法の認定基準に踏み込んでいない点だ。

 現在の国の公健法認定基準は二つ以上の症候があることだ。水俣病関西訴訟の最高裁判決(04年10月)は大阪高裁の一つの症候でもメチル水銀中毒と認められるとの判断を追認した。公式確認50年に向け環境省が設けた検証のための懇談会も、救済・補償の恒久的枠組み作りを提言した。

 ともに、公健法の認定基準見直しを求めていることは容易に想像できる。しかし、与党は今回も77年に提示した「二つ以上の症候」という判断基準は変更しなかった。

 特措法には3年以内に救済措置を講じ、終了時点で水俣湾沿岸地域や阿賀野川下流地域の公健法地域指定を解除することが盛り込まれている。

 そこで、第二の問題が出てくる。熊本・鹿児島両県で1月末時点で、公健法認定申請者は6200人に達している。3年で公正な認定審査作業ができるのか。現在提訴されている3件の損害賠償訴訟はそれまでに終わる保証はない。

 加えて、最終解決の柱である、公的診断でメチル水銀の影響がみられると判断された被害者への救済が一時金150万円、療養費・療養手当月1万円で十分なのかも争点だ。ちなみに、95年の政治解決時には一時金260万円、医療費、療養手当月約2万円だった。

 第三は、一時金を負担する原因企業への支援策としての、チッソの分社化容認である。いまのチッソを補償のための会社とし、収益を上げる事業会社を分社化する構想はチッソが求めていた。

 与党は救済を確実にするため、子会社の株式売却は救済の終了まで凍結するなどの条件は付けた上で、認めた。救済のための基金も設ける。しかし、裁判が長引いた時などに、責任の所在が不明確になりかねない。

 水俣病を巡っては、いまだに被害の全容は明らかになっていない。関西訴訟以降の認定申請者急増は、隠れていた被害者がいたからだ。早期に救済枠組みを作ると同時に、被害の実態把握も急ぐべきだ。

毎日新聞 2009年3月8日 0時18分

水俣病の被害者ほど、哀れで日本国の矛盾を鋭く問いかける存在はない。

この社説の最後の言葉は「被害の実態把握も急ぐべきだ」と締めくくられているが、冷静に考えてみてほしい。これは驚愕に値する事実ではないか。被害発生からいったい何年経っているんだ!

水俣病発生から半世紀以上たった今日においてなお解決をみない水俣病対策の最大の特徴はなんといっても、いまだに被害者の実態を示す統計データが存在しないことだ。日本政府はこれまで一度たりとも、メチル水銀曝露を受けた住民の汚染の程度を示すための血液検査、尿検査、毛髪水銀調査などを行ってこなかった。熊本県衛生部が、毛髪水銀調査を行ったことがあったが、長い間そのデータは隠されていた。熊本県衛生部がせっかく始めた毛髪水銀調査も1963年に毛髪水銀含有量の減少を発表し、結局、3年間でやめてしまった。

そのために、汚染がどこまで広がったのか、どの範囲の住民までが汚染されたのかを示す正確なデータがいまだに存在しないのが現状である。これはどこの途上国ですか?

また、汚染の可能性がある地域でメチル水銀曝露を受けた可能性のある住民の健康調査をしたこともない。

結局、排水から水銀が垂れ流され続けていることを知りうる立場にあった行政は、30年代という曝露が進行している時期における曝露と症状、もしくは水俣病像というもののきちっとした調査自体を、行うべきであったにもかかわらず行ってこなかった。

国がメチル水銀中毒症(水俣病)被害分布を公的に調査しなかったため、自分がメチル水銀中毒症(水俣病)ではないかと疑う患者は、自分から調べてくれと申し出る以外になかったのだ。

行政は、申請にやってきた被害者を水俣病と認定する事務だけを行い、棄却した人たちを”水俣病ではない人たち”として調査の対象からはずしていたのである。

ましてや、差別社会に負けて声も上げられない人たちなど視野にすらはいっていなかったと言わざるを得ない。

このような行政不作為が救済されるべき被害者分布の把握を困難にしている大きな理由である。もし仮に、台風や地震などの自然災害や事故で被害状況を確認しようとしなれば重大な行政不作為というほかないだろう。同じことが水俣では完全に無視されてしまっているのである。


毎日新聞の社説は問う。
なぜ認定基準にメスを入れないのか。患者認定のハードルが司法判断より高すぎるではないかと。
それによって大多数の被害者が切り捨てられてきたではないかと。なぜ司法の判断が無視され続けるのか。

このギャップを理解するには、次の3つの事柄を丹念に解きほぐすことが必要である。
(1)不法行為法の原則
(2)行政による暫定的な救済措置
(3)1973年のチッソ−患者団体との補償協定
この3つの糸の絡まりを解かなければ、認定基準の問題は決して理解することができないのだ。

第一に、そもそも【被害】とはなんぞや。加害事実との因果関係が立証されるかぎりにおいて、加害者は被害者に対して不法行為責任(賠償責任)を負うのが私法上の大原則である。司法の判断が水俣病という病名を用いず、公害健康被害補償法(公健法)上の水俣病よりも低い基準で加害と被害との因果関係を認定しているのは、病理学上の分類によって事実認定されるわけではないからである。
したがって、司法の認定によれば、軽度の被害には軽い賠償責任を、重度の被害には重い賠償責任をそれぞれ負わせることになる。しかしながら、高度経済成長期夜明け前の日本社会で発生した公害事件は、司法機関のプロセスの限界を突きつけるものであった。司法機関が、加害者を特定し、被害事実との因果関係を確定するまでに途方もない時間がかかってしまうのだ。古典的な意味での不法行為法は、加害者と被害者が点と点で結ばれる小さな世界を想定していた。公害事件は加害者像も被害者分布も、古典的な市民社会像の枠組みをはるかに超えた、あいまいなものだったのだ。

そこで、司法の限界に直面した1960年代の日本は、立法による暫定的な救済という方法を適用し、公害と立ち向かった。立ち向かったというとカッコいいが、実際には政府は原因者を知りながら、チッソ工場から垂れ流される排水を黙認していた。ともあれ、政府は1969年、公害健康被害者救済特別措置法を制定し、司法による救済を待つあいだ、暫定的に被害者を救済する方策を打ち出す。この特措法が、73年に公健法に受け継がれることになる。

その同じ年の三月、原因企業のチッソと患者団体との間で、補償協定が締結された。この協定において、公健法で水俣病患者と認定された患者に対して原因企業が補償金を支払うことが明記された。
この協定は、水俣病患者家庭互助会、水俣病患者家族新互助会及び水俣病患者家族平和会とチッソの間で結ばれたものであるが、締結時以降に認定を受けた患者についても、その希望に応じて適用されることとなっている。つまり、公健法で水俣病患者と認定すると、協定の当事者でなくてもチッソと被害者の間の補償協定が適用され、チッソが被害者に賠償することになる。この協定では、行政認定とともに平均一律1600万円相当の一時金補償が実施されることとなっており、公健法よりも有利なので、実際上、公健法からは支払われないことになった。

さて、ここで大問題が生じた。
これまで隠れていた被害者たちが表面化し、行政認定をもとめて殺到してきたのである。認定業務は追いつかなくなり、またチッソの賠償能力も懸念され始めた。
この状況下の1977年、悪名高い、【昭和52年判断基準】の通達が環境庁から下される。
この基準は、水俣病に多発する症状、すなわち(1)感覚障害(2)運動失調(3)平衡機能障害(4)求心性視野狭窄(5)中枢性眼科障害(6)中枢性聴力障害(7)その他――のうち、複数の組み合わせを要求している。52年判断条件は、1971年の通達による基準があいまいであるとの指摘をうけ政府内で協議した結果、診断基準を明確化する目的で通知されたものである。この52年判断条件が事実上認定患者数をより厳格に絞り込む基準になった。患者認定のハードルが高くなったのである。
翌78年、熊本県によるチッソへの金融支援が始まった。

金融支援により、補償協定上の債務返済能力を担保するとともに、公健法による認定は、補償協定によって支払われる1,600万円に見合う患者を絞り込む機能を果たすようになったのである。

この時点で、認定基準を満たさない軽度の患者はなんら行政上の救済を与えられることがなくなってしまった。迅速かつ円滑な救済手段をうたう公健法の立法趣旨は死んだも同然である。ただ単に補償協定上の足きり基準を提供する役割を担うようになったのだ。
ここで行政が本来やるべきことは、症状の程度に合せて患者のレベルを設け、補償協定からもれる患者を救済することであったが、はっきりいって何もしてこなかった。被害者たちは絶望し、あえて認定申請をして地元の差別と戦う気力も体力もなく、長い沈黙にもぐってしまうのだった。

そんなときに、裁判ののろしを上げたのが、水俣病関西訴訟の原告団である。1982年のことである。
裁判には途方もない時間がかかる。承知の上だ。最高裁判決により最終的にチッソと行政の責任が確定したのは、それからさらに22年後の2004年であった。1968年まで排水を黙認しつづけた行政の責任とはなんだったか。

廃水が原因だと解っていても止めるわけに行かなかった。

確信犯だといわれても謝るしかない。

(当時経済企画庁水質調査課長補佐だった汲田卓蔵氏の証言)(NHKスペシャル・戦後五十年「チッソ水俣工場技術者の証言」1995年7月1日放送。)

確信犯という言葉がこれほど突き刺さる公害事件は他に類例をみない。

3年前に開催された、当時の環境相の私的諮問機関である環境省水俣病懇談会は、行政としては画期的ともいえる議事録及び提言を残している。
中央官庁がこれだけ率直に自らの過ちを認め、資料として議事録に残したことは驚くべきことである。

http://www.env.go.jp/council/26minamata/y260-05.html

を参照してほしい。例えば上記の第五回懇談会では、当時の通産省全体として経済成長のために辺境の地で人命に犠牲が出てもやむをえないという強い意思があったと明確に指摘している。そこで述べられている当時の行政に関わった者の証言、態度、そして行政不作為はあまりにも生々しく、そしてえぐい。特に通産省はまさに確信犯というべきだ。


さて、冒頭の救済法案に戻ろう。
私は、この法案がなぜ3年の期間を設けているのか理解できない。期限を設けることが合理的だとしても、たったの3年ですか?という思いがぬぐえない。
裁判で戦う人を切り捨てる意味もわからない。
行政の責任が最高裁で認定された4分の1の共同不法行為責任にとどまるとも思っていない。

04年の判決後に、被害の実態調査に乗り出さなかっただけでも、極めて重大な不作為といわざるを得ない。
もちろん、自民党のPTの努力には頭が下がる思いもある。
この案に修正点があるとすれば、恒久立法とすること、および行政に被害調査の義務付けをすることではないかと私は思う。


少なくとも1959年の時点で排水を止めていれば。。。
水俣病が半世紀以上に及ぶ長大な歴史物語にならずにすんだはずである。

07年に頓挫した与党PT案が動き出す


以下、熊日が救済案の骨子を掲載している。
大枠は07年秋のバージョンと似ているが、今回は公健法の指定解除の文言が追加された。
完全な幕引きを目的としていることがいっそう明確になった。
私の意見は全くかわらない。
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20071030/p1

与党プロジェクトチーム 救済法案の要旨

 与党プロジェクトチームの水俣病救済特措法案要旨は次の通り。

【目的】

 水俣病被害者を救済し、水俣病問題の最終解決を図る。必要な補償費用を確保するため、原因企業チッソの経営形態を見直す。

【原則と責務】

一、認定患者への補償を完遂する。

一、救済を受けるべき人を救済する。

一、チッソは補償費用を負担した上で、地域経済に貢献する。

一、国や関係自治体、チッソのほか地域住民も水俣病問題の最終解決を図るよう努める。

【救済方針】

一、政府は一時金、医療費、療養手当の支給に関する方針を定め、公表する。

一、一時金はチッソが負担する。

一、通常以上のメチル水銀の影響を受けた可能性があり、手足の先ほど感覚障害が強い症状のある人を救済する。

一、認定申請や訴訟などで補償を求める者は対象外とする。

【最終解決】

一、政府、関係県、チッソは認定審査を進め、最終解決に向けた取り組みを早期に進める。

一、政府、関係県、チッソは三年以内をめどに救済対象者を確定し、一時金などをすみやかに支給するよう努める。

一、救済されるべき人が救済された後は、公害健康被害補償法に基づく水俣病指定地域を解除する。

一、チッソは認定患者への補償資金を確保するため分社化を計画し、環境相の認可を受ける。

一、チッソは救済が終了するまでは事業会社の株式譲渡を凍結する。


熊本日日新聞 2009年03月05日

終止符とは何を意味するか〜【 水俣病救済策 これで終止符を打つべきでは(10月29日付・読売社説)】

先週くらいから水俣病の政治決着へ向けた与党PTの解決案がドラスティックに動き始めた。

私は、04年以来、しばらくこの問題に関心を払ってきた。

この与党PT案をほめるところがあるとすれば、水俣病の早期解決という至上命題と、幅広い解決という至上命題という二つの両立しがたい課題に直面するなかで、患者団体の怒号と悲痛な叫びとなって渦巻く水俣で、よくぞここまで努力して解決を模索してくれたことである。過去の入り乱れた救済策のバランスをギリギリのところで保とうという努力も評価している。だが、内容は不満の残るもので、にわかに賛同することはできない。ただ一刻も早い解決をという問題意識は痛いほどわかるし、私に対案を出せといって出せる能力もないから、与党PT案に対する私の批判もその程度の力しかもたないことは重々承知している。

29日付けの読売社説が差し迫った水俣病政治決着について以下のように論評している。社説で扱ったことだけは評価したい。この問題には若干背景事情の説明が必要であろうと思われるので、拙いながら解説を加えることにする。できるだけ分かりやすく水俣の問題を伝えたい。

水俣病救済策 これで終止符を打つべきでは(10月29日付・読売社説)

 今度こそ、水俣病問題に終止符を打たねばなるまい。

 水俣病問題の与党プロジェクトチーム(PT)が、水俣病と認定されていない被害者の救済策をまとめた。150万円の一時金と、月額1万円の療養手当などを支給する。一時金は原因企業、療養手当は国と熊本県などが負担する。対象者は1万〜2万人とされる。

 一時金の支払いに難色を示しているチッソは、与党PTの救済策に従い、原因企業の責任を果たすべきだ。

 未認定患者は高齢化が進んでいる。今回、救済対象となる主要4被害者団体のうち2団体は、救済策を受け入れる意向だ。残る団体は拒否する姿勢をみせているが、早期解決を最優先に、受け入れを検討すべきではないだろうか。

 水俣病と公式に認定されるには、感覚障害や運動失調など、複数の症状の組み合わせが必要だ。これまでに認定されたのは約3000人で、チッソなどから1000万〜1800万円の補償金などが支払われている。

 認定申請を退けられた人たちは、次々と訴訟を起こした。事態収拾のため、村山内閣は1995年、1万人余の未認定患者に、260万円の一時金などを支給することで政治決着を図った。

 だが、2004年の関西水俣病訴訟の最高裁判決をきっかけに、問題が再燃した。政治解決に参加しなかった未認定患者が国などに損害賠償を求めたこの裁判で、最高裁は、国の認定基準を満たさない人も水俣病と認めた。

 さらに、水俣病の被害拡大を防ぐ有効な手だてを講じなかったとして、国に賠償を命じた。

 判決後、最高裁の判断に沿った認定を求める人が相次いだ。国の認定基準と司法の判断基準の食い違いが、事態を複雑にした。

 国は認定基準の緩和を拒否している。基準を見直せば、新たな認定患者に対する補償金などのため、チッソには数千億円の財政負担が生じ、破綻(はたん)は避けられないとの見方がある。そうなれば、被害者救済が滞る。チッソを財政支援してきた国の負担もさらに増すだろう。

 今回の救済策は、95年の政治決着の際に救済されなかった未認定患者が対象だ。残された最後の人たちといえる。

 環境省は、与党PT案が最終解決策となるようチッソなどの説得に全力を尽くさねばならない。

 水俣病が公式に確認されてから、半世紀が過ぎた。関係者がそれぞれに歩み寄らなければ、被害者救済を巡り、長年にわたって続く問題は、解決しない。
(2007年10月29日1時32分 読売新聞)



第一の政治決着と行政不作為・認定制度

今度こそ水俣病問題に終止符を打たねばなるまい。

今度こそ、とは、暗に1995年の政治的決着の失敗をさしている。
95年の政治決着とは、村山首相時代に、長引く裁判闘争の果てに政府が提示した最終的な解決策のことである。国は、これに乗り遅れたら終電はありませんよ、という意味がこめ、最終解決策であることを強調した。公害発生から40年あまり、国との戦いに疲れ果てた被害者たちには、これが最後のチャンスと映じた。

当時、水俣病関西訴訟が10年以上続く中で、裁判所の和解勧告を拒否し続けてきたのは、ほかならぬ国だった。95年の政治決着まで政府が患者団体と交渉のテーブルにつくことは一度もなかった。

そうしたなかで急浮上した解決策に、認定申請を棄却されつづけた患者たちは戸惑った。
政府案の骨子は、公害健康被害補償法(以下、公健法)に基づく行政認定申請者(未認定患者)に対して、一定の要件のもとで「”公健法上の水俣病”とは認められないが症状が重い者」というカテゴライズしたうえで、(1)一時金260万円(年間約35万円給付)と(2)医療費が全額給付される「医療手帳」、比較的症状が軽い者に月額治療費7500円を限度とする「保健手帳」の交付を内容としていた。
救済を求めて認定申請をしてきた被害者たちに突きつけられたのは、自分たちを水俣病とは認めないが、救済するから認定申請もやめろ裁判もするな、これが最終案だ、という圧力であった。

こういう状態で、やはり短期間できめにゃならん、ということになったものですから、そこんとこが・・やはり・・私には、心残り・・です。

(政府解決策を前にしての患者団体の会合にて(NHKアーカイブスETV特集「苦渋の決断〜水俣病 40年目の政治決着」1995年放送 )より

そこには、戦いに疲れはて、年老いた患者たちがいた。
その結果、約一万人が医療手帳を受領し、約一千人の被害者たちが保健手帳を手にした。

しかし、95年の政府解決策は最終決着とはならなかった。

上記の救済策は、訴訟及び認定申請の取り下げと引き換え条件とされていた。
これは乱暴な言い方をすれば、この条件は、水俣病と認められるための戦いのなかで、しだいに高齢化し、弱っていく患者らの肉体との狭間で、一刻も早い迅速な救済を求めざるを得ない人々を選別する機能を果たしたにすぎなかったのだ。

これは認定取下げを条件とすることで、我慢強い人たちや軽症の人たちを取りこぼしたという意味ではない。また、行政責任を二度と問わないと約束することで裁判にこだわる人たちを取りこぼしたという意味でもない。このなかには、九州の辺境の漁村の重苦しい差別のなかで、認定申請すらできない人たちが大量に含まれていることを忘れてはならない。認定申請をしようとすれば、魚が売れなくなるという理由で長い間認定申請をする人がでなかった不知火海の島々があることを忘れてはならない。認定すればニセ患者として誹謗され、村から水俣病患者が出るということは恥ずかしいと思うような地域共同体がそこにあった。
さらにいえば、こうした社会構造のなかで重症の人たちはとっくに人知れず死亡していた。彼らの無念も取りこぼしていたのである。

行政責任を二度と問わないことを引き換えに救済策を打ち出した国。
この国に最後まで立ち向かったのは、水俣病関西訴訟の原告たちである。裁判闘争を続けたこの団体によって、10年の後にようやく国家の不法行為責任が明らかにされることになった。

その行政責任から浮かび上がってくるのは、95年の政治決着で最終解決に至らず、結局、行政が多くの被害者を置き去りにしまった根本的な原因だ。

政府・行政は、今日に至るまで、一貫して、訴訟当事者及び認定申請者のみを対象として救済を呼びかけつづけている。これは水俣病公式確認から半世紀をへてようやく行政責任を厳しく指弾した04年の最高裁判決、そして認定審査会の狭き門を前提とすると驚くべきことである。

もはや被害者の取りこぼしの原因が以下の二つであることは明らかだからだ。

―過去の半世紀、実態調査が行われたことがないという驚くべき事実―

発生から半世紀へてもなお解決をみない水俣病対策のリスク管理上の特徴はなんといっても、いまだに被害者の実態を示す統計データが存在しないことだ。日本政府は、これまでに、メチル水銀曝露を受けた住民の汚染の程度を示すための血液検査、尿検査、毛髪水銀調査などを行ってこなかった。熊本県衛生部が、毛髪水銀調査を行ったことがあったが、長い間そのデータは隠されていた。熊本県衛生部がせっかく始めた毛髪水銀調査も1963年に毛髪水銀含有量の減少を発表し、結局、3年間でやめてしまった。

そのために、汚染がどこまで広がったのか、どの範囲の住民までが汚染されたのかを示す正確なデータが存在しないのが現状である。
また、汚染の可能性がある地域でメチル水銀曝露を受けた可能性のある住民の健康調査をしたこともない。

結局、排水から水銀が垂れ流され続けていることを知りうる立場にあった行政は、30年代という曝露が進行している時期における曝露と症状、もしくは水俣病像というもののきちっとした調査自体を、行うべきであったにもかかわらず行ってこなかった。

国がメチル水銀中毒症(水俣病)被害分布を公的に調査しなかったため、自分がメチル水銀中毒症(水俣病)ではないかと疑う患者は、自分から調べてくれと申し出る以外になかったのだ。
行政は、申請にやってきた被害者を水俣病と認定する事務だけを行い、棄却した人たちを”水俣病ではない人たち”として調査の対象からはずしていたのである。
ましてや、差別社会に負けて声も上げられない人たちなど視野にすらはいっていなかったと言わざるを得ない。

このような行政の不作為が救済されるべき被害者分布の把握を困難にしている大きな理由である。もし仮に、自然災害や事故で被害状況を確認しようとしなれば重大な行政不作為というほかないだろう。同じことが水俣では完全に無視されてしまっているのである。

行政が被害者を置き去りにしたもうひとつの原因はいうまでもなく、公健法による救済が極めて狭き門であったことである。

―行政による認定が狭きに失する―

95年の政治決着までの10年間に認定された患者はわずか85人。その間に6785人が棄却されていた。この事実から、棄却された数千人の大半がニセ患者であったという見方をする人はまずいないだろう。常識的には、認定基準より程度の軽い被害者が広範囲に存在する可能性のほうが高いと考えるはずである。
この認定制度の基準は、のちの01年の高裁判決ならびに04年最高裁で是認されているように、「患者群のうち、(公健法上の、及び1973年のチッソとの補償協定上の)補償額を受領するに適する症状のボーダーラインを定めたもの」と理解されるべきものであった。環境省水俣病懇談会の提言参照 。

73年補償協定とは、同年の被害者がチッソを相手取った訴訟の熊本地裁判決の事実認定をもとに、水俣病患者家庭互助会、水俣病患者家族新互助会及び水俣病患者家族平和会とチッソの間で結ばれたものである。協定のなかで、締結時以降に行政認定を受けた患者についても、その希望に応じて適用されることが規定されている。つまり、公健法で水俣病患者と認定すると、チッソと被害者の間の補償協定によりチッソが被害者に賠償することになる。この協定では、行政認定とともに平均一律1600万円相当の一時金補償が実施されることとなっており、公健法よりも有利なので、実際上、公健法からは支払われない仕組みになっている。

73年の患者勝訴以降、認定申請者は爆発的に増え、認定業務が追いつかなくなっていた。業務にあたっていたのは水俣病の診察経験のない医師たちであり、認定棄却に患者らの不満がたまっていた。そうした中、1977年、当時の環境庁が認定基準に関する通知を発し、条件をさらに厳格に制限した。いわゆる52年判断基準である。ここにおいて、公健法上の水俣病と認定されるには、四肢まひの感覚障害のほか、運動失調など複数の症状の組み合わせが必要とされることになった。

結局のところ、この措置は、1600万円という補償額を受け取るに値する被害者を選別しているにすぎない。

後の04年の最高裁は、国の52年判断条件で水俣病と認められなかった原告を水俣病と認めた2審判断を「妥当」と支持し、事実上、公健法上の認定基準を否定した。

不法行為法による救済の限界と公害対策行政

裁判官は医師ではない。

したがって、裁判において、水俣病に関する専門的知見がどれほど確かだったかは、わからない。しかし、原点に戻れば、司法とは本質的に、原因と被害との因果関係を認定し、救済を与える最終的な国家機関なのである。

そもそも私人間の紛争は、民事上の手続きを通じて解決し、救済されるべきである、とするのが近代市民社会における制度設計である。

原因者が損害の賠償責任を負うのは、私人間の紛争を解決する民事法(不法行為法)の大原則である。

ところが、高度経済成長の途上で発生した、いわゆる公害事件は、この近代法の解決スキームの限界を露呈するものであった。公害の場合、民事訴訟上の救済には「原因と被害との因果関係の立証」や「原因者の特定」など事実認定にかかわる法技術的な困難が伴った。解決までに長大な時間を要することが多かったのである。司法による民事上の救済を待っていたら被害が拡大し、手遅れになることは誰でも想像できることである。

そこで公害問題に直面した日本は、”民事上の原則をふまえつつ”迅速かつ円滑な救済手段として、行政上、特別の救済措置が要請されることになった。

ちょうど高度経済成長を上りつめ、世界第二位の経済大国となった時期のことだ。公害とは、物質的な豊かさを享受しつつあった私たちにしてみれば、繁栄の光のなかで、暗闇でもがき続ける人々の存在に対する戸惑いであった。

あまりに重い代償を突きつけられて、それをどのように払っていけばいいかとまどい、議論が紛糾しはじめた時代であった。
1970年の公害白書は、

公害問題は、その原因と被害との因果関係や原因者の責任等、その問題の解明が容易でないばかりでなく、関係者あるいは地域社会の利害関係が複雑にからみあっており、これを巡る紛争等の処理は困難を伴う場合が多い。・・

悪臭、大気汚染等の公害発生をおそれて地域住民の反対運動が起こされる場合もみられ、複雑な問題を投げかけている。http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/honbun.php3?kid=145&serial=11496

と述べて、従来の司法的な解決には限界があるという問題提起を明確に示している。

民法は、対等な私人間に関するルールを定めたものだ。しかし、四大公害と称される現実の深刻な被害を前にして、私人間は本来的に対等であるという法的前提のもとで被害者が自力で訴訟を起して賠償を勝ち取るといった私法上の原則をそのまま適用していては被害を救済することは、事実上、困難であった。

そこで、この時期、立法府では、立法措置により原因者責任を公法上の責任として位置づけたり、司法のレベルでは、いわゆる無過失責任の理論や挙証責任の転換の理論を導入する必要があるという議論が盛んに行なわれた。また、公害紛争処理法に基づき簡易かつ迅速に公害紛争を解決することを目的とする公害紛争処理制度が発足(1970年11月)し、公害に係る無過失責任法が72年に制定されるなど、民事の領域の限界を乗り越えようとする動きが司法・政治の双方の法領域で加速した。

1971年の公害白書はこの問題意識を明確に意識しつつ次のように述べる。

現段階においては公害による被害の救済には長期間を要しており、また、確実に救済を受けられるともかぎらないというのが実情である。さらに、公害紛争処理制度による解決や無過失責任主義の理論等が司法制度に取り入れられた段階における公害問題の解決についても、かなりの時間を要するものと考えられる。公害の影響による疾病にかかっている場合には、その被害者は公害の原因者に対して裁判等によって損害の補てんを求めることができるのは当然のことであるが、その解決を得るまでの期間については、財産等の物的損害に対する事後的な補償の場合とは異なって、日々治療等を必要とするものであり、一刻も放置できないという緊急性を有している

 したがって、司法上の救済措置が究極的な解決手段であるという原則に立ちながらも、それとは別に、迅速かつ円滑な救済手段として行政上特別の救済措置を創設すべきであるという趣旨に沿って44年12月に制定された公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法に基づく健康被害救済制度は、今後いっそう充実改善してゆかなければならない。http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/hakusyo.php3?kid=146&serial=11937&kensaku=1&word=%8C%B4%88%F6%8E%D2

こうして、日本における公害の健康被害の救済は、民事訴訟システムの限界を埋める行政措置からスタートした。公害健康被害者救済特別措置法による救済措置は、あくまで緊急の措置として、民事責任とは切り離して議論されたので、救済も医療面に限定された応急的なものであり社会保障的性格の強いものであった。そこで基本的には民事責任をふまえた行政上の損害賠償を保障する制度の確立を目指そうとする方向が示された。
そこで用いられたのが原因者負担の原則(日本版PPP原則)という理念である。1973年環境白書は公費の負担はこの原因者負担の原則に背馳しないかぎりで行なうことを確認している。
PPP、すなわちPolluter Pays Principle(汚染者負担の原則、OECD環境委員会が定めた環境指針原則勧告)が初めて環境白書に登場するのは1972年のことである。しかし公害国会と呼ばれた70年の政治的議論を経た日本においては、PPPは、先行して議論された原因者負担の原則と同一視する形で理解されるようになっていた。
原因者負担といった従来型の法的責任論をベースにしながら、環境復元費用や被害救済費用といった事後的な救済費用にも汚染者負担の考え方が採り入れられることとなった。OECDの定義と際立った違いは、日本版PPPが効率性の原則というよりもむしろ、公害対策の正義と公平の原則としてとらえられている点にある


議論が少し微細になりすぎた。

サマライズすると、こういうことだ。
日本の公害立法は、原因者の責任というフレームで処理するプリンシプルをもっていたということである。原因者に責任を取らせることが解決の道筋だと考えられていたのである。
この方向性さえ理解しておけば70年代後半以降、水俣病の原因企業をめぐって、行政がどのような対応を迫られる事態にいたったかを簡単に理解することができる。
詳細は以下に述べたので参照してほしい。
http://fragments.g.hatena.ne.jp/mescalito/20041121/p1
少しかっ飛ばします。

結論を先にいえば、79年から、行政は、多額の賠償金支払いに経営危機に陥り、倒産寸前に追い込まれたチッソを支援する方針をきめた。結局国は、原因者負担の原則を堅持したがために、補償金破産に直面した原因企業を金銭面で支え続ける破目になったのである。
原因者を支援しなければ、原因者責任を最終解決としたスキームが貫徹しないからである。

これだけでもマンガのような間抜けぶりだが、さらに滑稽なことは、原因企業と支え続けた国もまた、連帯責任者(加害者)だったじゃないかと最高裁に認定されたことである。
そして、もっとも理不尽なのは、原因者の破綻を防ぐために、原因者責任の根拠たる司法認定そのもの、すなわち究極的な司法解決により認定された原因と被害との因果関係を無視せざるを得ない状況にあることである。なぜなら行政認定基準は、すでに1600万円相当の補償額をチッソから受け取るに値する被害者を選別する基準となってしまっているからである。認定基準が民事の補償協定とリンクした時点で、あたかも行政が水俣病として救済されるべき範囲を限定する機能をもってしまったのだ。

水俣病の行政責任とは

2004年10月、水俣病関西訴訟最高裁は、行政の不法行為責任を認めた大阪高裁判決を是認し、国と県に賠償を命じる判決を出した。ここにいたって初めて国は自らの過ちをわびる機会をもったのである。その責任たるや、上記読売社説にいう、

水俣病の被害拡大を防ぐ有効な手だてを講じなかった

という生易しい表現で言い尽くせるものではない。
むしろ以下の発言に凝縮されているあまりに深い罪業である。

廃水が原因だと解っていても止めるわけに行かなかった。


確信犯だといわれても謝るしかない。



(当時経済企画庁水質調査課長補佐だった汲田卓蔵氏の証言)(NHKスペシャル・戦後五十年「チッソ水俣工場技術者の証言」1995年7月1日放送。)

確信犯という言葉がこれほど突き刺さる公害事件は他に例をみない。

一昨年から昨年にかけて開催された、当時の環境相の私的諮問機関である環境省水俣病懇談会は、行政としては画期的ともいえる議事録及び提言を残している。

中央官庁がこれだけ率直に自らの過ちを認め、資料として議事録に残したことは驚くべきことである。

http://www.env.go.jp/council/26minamata/y260-05.html
を参照してほしい。例えば上記の第五回懇談会では、当時の通産省全体として経済成長のために辺境の地で人命に犠牲が出てもやむをえないという強い意思があったと明確に指摘している。そこで述べられている当時の行政に関わった者の証言、態度、そして行政不作為はあまりにも生々しく、そしてえぐい。特に通産省はまさに確信犯というべきだ。



こういう発言は、患者運動サイドや、水俣病を告発し、社会政治的な視点から実態を研究するアカデミズムの側から、かねてより提起されつづけてきたことであった。しかし、行政がそのままダイレクトな表現で認めたことは一度たりともなかったことであった。

ある意味で、環境省の役人がつくったこのブリーフィングはアグレッシブなまでに自らの過去を反省する画期的な姿勢を示している。

04年の判決の後、環境省の幹部は被害者らに深々と頭を下げた。本来、頭を下げるべきなのは当時の通産官僚だと思う。

行政責任を踏まえた救済とは

ところが、その同じ環境省が認定基準については一切妥協しない。

基準を変えることが、これまでに入り乱れた複雑な解決スキームにさらなる混乱を招来し、結局、当事者の幸福に決して結びつかないと考えているからだ。
これは確かにそのとおりというほかはないし、認定基準そのものも、チッソから補償をうけるに値する重症の患者を選別する意味合いにおいては、なお十分に機能するというべきだろう。

しかし、公害を不法行為として位置づけ、原因者負担を原則とした日本の公害行政の原点を思い起こしてほしい。
数々の公害被害者救済立法は、司法上の救済措置が究極的な解決手段であるという原則に立ちながらも、それとは別に、迅速かつ円滑な救済手段として行政上特別の救済措置を創設すべきであるという趣旨で始まったはずである。実は、途方もない時間はかかっても、やがては解決する司法の救済を待つ間の措置という大前提があったのだ。それゆえ、原因者負担というスキームで公害を解決する方向性を選択せざるを得なかったわけである。
言い換えれば、行政による救済は社会保障的な意味であるから、被害者分布に比して大胆な足きりを可能とし、他方で、原因者責任の貫徹として、今日に至るまで、延々とチッソへの金融支援を国が続けてきたのではないか。



以上を踏まえると、行政による認定と司法による認定が異なるのは、スキーム上、予定されていたことであり、司法の判断が最終的に被害者として認定する範囲を広げた以上は、行政認定よりも広範囲に被害者が分布するという推定のもとに、速やかに被害の実態調査を開始するのが筋であるというべきである。ましてや加害者たる国には、そのような措置をとる法的責任があるように思える。

ところが、今日に至るまで、国や県は、認定申請や保健手帳申請者に対して任意に健康診断を行っているにすぎない。このような対応が続いていることは非人道的ですらある。


そのような意味で、現在の問題である与党PT策について、以下のような報道があるが、ほぼすべて正しい。

抜本的解決求め決議 九弁連、新救済策を批判

 九州弁護士会連合会(田中寛理事長)の定期大会が二十六日、宮崎市のホテルであり、「水俣病問題についての抜本的な解決を求める決議」を採択した。

 与党プロジェクトチームが検討している未認定患者に対する救済策について「内容は極めて限定的で不十分と言わざるを得ない」と批判している。

 抜本的な解決策の策定について、決議は「被害の全体を把握するため、行政による不知火海沿岸全域を対象とした健康調査が最も重要」と指摘。その上で、「従来の判断基準を改め、被害者全員を救済し、補償内容は関西訴訟最高裁判決を下回ってはならない」としている。

 また、解決策は時限的ではなく恒久的な施策とすることや、原因企業チッソだけでなく国と熊本県も経済的負担を負うことなども求めた。(奥村国彦)

熊本日日新聞2007年10月27日朝刊

しかし、与党PT案が方向性を誤っているというわけでない。それに賛同する患者団体が責められるべきではない。迅速な救済は至上命題である。

しかし、原因者は、原因者の都合で解決に勝手に期限を設けるべきではないし、お金がない、という事情も原因者の側の問題にすぎない。国が原因者であり、直接原因者を支援し続ける資力があることをかんがみると言い訳にはなりにくい。
そもそも、原因者負担論で公害問題を解決しようという無理のあるスキームがばかげている、と思わず口に出してしまいそうになるが、もし近代法のスキームに寄りかかるなら、ここで足きりをするのは不法行為責任の原則に背馳し不合理といわざるを得ない。


04年判決が緩やかな基準で水俣病と認定したことを受けて、行政認定申請者が爆発的に増大、司法認定と行政認定の二重基準に審査会は混乱、以来一年半以上、自治体の認定業務が機能停止に陥ったままであった。再開されたのはつい最近のことである。その間、環境省は、被害者に対する医療体制を整えることで対応したが、そのスキームの目玉商品である新保健手帳は、医療費の自己負担分の全額支給という画期的な救済策をアピールしたが、見向きもされず、行政認定申請者は増え続ける一方であった。

ここで、95年解決策を涙をのんで受け入れた人たちの旧保健手帳が月額治療費7500円を限度としていたことを思い出してほしい。さらに、想像してほしいのは、ここで新医療手帳を手にした人たちは、95年の最終解決に乗らなかったため、以来、10年以上も全く手当てが存在しなかったことを。そして複数の異なるスキームによる解決策が被害者を分断してしまうことを。

現在の行政による水俣病対策には時系列的に並べると以下の4つがある。

(1)公健法に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(1973年チッソとの補償協定により1600万円〜1800万円)

(2)1995年の政治決着による救済(一時金260万円+手帳)

(3)04年最高裁水俣病と認めた「司法認定」者への賠償

(4)05年にスタートした新保健手帳(医療費全額補助)

他方、チッソによる水俣病被害者に対する補償という観点からは、時系列的に次のような解決が図られてきた。

(A)1959年12月見舞金契約(死者30万円成人10万円未成年3万円→のちの裁判で公序良俗に反し無効となる。

(B) 1970年5月厚生省の水俣病補償処理委員会により示された補償案を受諾し和解契約を結んだ一任派に対する補償(生存者一時金220万円)

(C)公健法に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(1973年チッソとの補償協定により1600万円〜1800万円)


そして今回の政治決着案は、新たな(5)にあたる。
(5)一時金150万円・療養手当月額1万円の支給・医療費の自己負担分の全額補償

(A)〜(C)のいずれの救済策も実は行政が関与している。あの悪名高き見舞金契約のベースとなった調停案を主導したのは当時の熊本県知事であった。そして行政が関与するたびに円満解決、一件落着とシャンシャンがうたれてきた*1

しかし、にもかかわらず、行政は、救済の玉を投げれば投げるほど、相互の救済策の公平という問題に足を絡めとられる破目になったというほかない。前述したように(1)と(C)がイコールであることが原因者負担論を複雑にしている。

ただ、これ自体を行政の無策というべきではないだろう。仮に、原因者たるチッソにはとっとと倒産してもらって、行政がスーパーファンド法のようなファイナンスの仕組みを用いて補償制度を構築していたとすれば、はるかに公平かつ迅速な救済が可能になったかどうかは定かではない。何がよかったか悪かったかなどというのは結果論である。


今、国は、判決が示した不真正連帯責任の免除という法理をつかって、共同不法行為の賠償責任の1/4しか賠償義務がないという論理を展開し、司法による救済ではチッソが賠償破綻した場合に、かえって救済の幅が狭まると主張している。はっきりと主張したわけではないが、環境省最高裁の認定が従来の解決スキームを混乱させると考えているようである。79年来、ずっとチッソに金融支援をしておきながら、国は今後同様の被害が認定されたとしても、今後は25%だけ負担すればよいという方向転換をすることができるかどうか果たして疑問があるが、原則論としてはそのとおりである。

しかし、最高裁判決が出たことで初めて行政責任が明らかにならなかったうえ、も行政救済のハードルが異常に高すぎて、多くの被害者が泣き続けることになっていたことを考えると、最高裁の一石は非常に重い。

そしてまた、行政が、被害者が向こうから救済を求めてやってくるのをひたすら待っている、といった姿勢を今後も続けるべきかは、加害者として真剣に考えるべきであろう。被害の実態を把握するベースラインサーベイを速やかに実施し、その上で被害の分布、程度に応じた救済策とファイナンスを考えてゆくのが筋である。

実際のところには、救済を待っているのは被害者のほうである。そのように割り切ったほうが現実的である。

1968年、当時の厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞ったときのことである。

孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、震える声で「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。

映像を見たことがある人は知っているであろう。痙攣しているというよりは、ベッドの上で、骨も折れんばかりに暴れている、といったほうが適切だ。歌ったり、しゃべったりすることが出来るような状態ではない。君が代を歌いつづける村野タマノさんに、大臣は声をかけることすらなくほんの10秒足らずで背中を向けて去ってゆく。厚生大臣の立ち去り際に村野さんは「天皇陛下 バンザーイ!!!」と叫び、大臣がちらっと振り向く、私はこれほど凄まじい「君が代」を聞いたことがない。


村野タマノの国への想い。それはなんだったか。
色川大吉がこう書いている。

なぜ「君が代」なのか

これは明治以来の今なお生き続けている精神構造としての天皇制を考えないでは、理解できない。つまり、現実には差別構造の差別者の頂点にある天皇であっても、無辜の民にとっては、いつも一番どん底に追い詰められた人々を、最後に救いあげてくれる超頂点、この世の神と思われていたのである。だから村野タマノからすれば、とうとう天皇陛下様が、誰からも見捨てられた自分を見舞いに来て下さった。大臣をここによこしてお言葉をかけてくださる、というような意識ではないかと思う。それを、無知な女が戦後の民主主義も知らないで時代錯誤的なことを叫んだ、というふうに取らないでほしい。そうではなくて、それほどいじましい気持ちを、絶望のどん底にありながらもち続けたという、その心情を重く受け止めたい。この人の無知を笑う前に、お上はみずからをはじるべきでした。(1979年3月20日水俣病ニセ患者発言傷害事件における証言より)

私は、日本国というもの、そしてそれを民主的に支えているはずの私たち国民のあり方を問うべきだ、と感じざるを得なかった。

通産省チッソの排水を黙認し続けなければ、日本の高度成長はありえなかった。プラスチック製品の原料を生産する当時のチッソとは高度経済成長を牽引するトップ化学産業だったのだ。

昨年の環境省水俣病懇談会提言は次のようにいう。
http://fragments.g.hatena.ne.jp/mescalito/20061104/p1参照

新たな救済・補償に伴い、国は財政負担を強いられることになるが、国全体が経済成長の恩恵を受けその陰で犠牲になった人々への償いととらえるなら、「汚染者負担の原則」に基づく原因企業の負担は当然にしても、国民の税金を財源とする一般会計から応分の支出をするのも当然のことと考えるべきであろう。

私は全くそのとおりと考えるが、いかがであろう。


読売社説はこう締めくくっている。

 水俣病が公式に確認されてから、半世紀が過ぎた。関係者がそれぞれに歩み寄らなければ、被害者救済を巡り、長年にわたって続く問題は、解決しない。

しかし、不知火患者会弁護団は、今回の政府解決策について次のように批判している。

(1)行政が対象範囲を一方的に決める公的診断では被害者が大量に切り捨てられる(2)新救済策や新保健手帳に受け付け期限を設けるのは、被害者に裁判を断念させようとするもので裁判をする権利を不当に侵害している(3)恒久的対策を求めた元環境相の諮問機関「水俣病問題に係る懇談会」の提言に反しているなどを挙げた。(熊本日日新聞2007年10月27日朝刊より)

どちらの主張が正しく、どちらの主張が間違っていると断ずることが誰にできようか。しかし、半世紀を振り返ると、歩み寄ろうとしなかったのはどちらかというと国のほうである。
それに(1)行政が対象範囲を一方的に決める公的診断では被害者が大量に切り捨てられる、という批判は極めて深刻である。被害者だと名乗り出た者だけを救済するシステムが公正であるとはいえない。
せめて実態調査を開始するべきなのだ。
それができない理由は、誰も口には出さない。しかし、誰もがみな分かっている。
知らないふりをしているだけなのだ。

水俣病問題は終わった―
過去半世紀、何度となく行政の口から繰り返されてきたこの言葉が、一体何を意味していたかを考えるときが来ている。

最後の政治決着

95年につづいて第二の政府解決策というべき、与党PTの新救済策が先週くらいから大きな動きをみせている。

〜おさらい編〜
公健法の認定制度と水俣病の救済
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20070315/p1
環境省水俣病懇談会の提言を読む(水俣セミナー緊急企画)
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20061104

水俣病未認定患者の新救済案、「出水の会」が受諾へ
加算金支給条件に

 水俣病未認定患者の救済問題で、最大の団体「水俣病出水(いずみ)の会」(事務局・鹿児島県出水市、約3000人)は27日、出水市内で役員会を開き、与党プロジェクトチーム(PT)の新救済策への対応を協議した。

 同会が求める団体加算金20億円の支給をPTが認めることを条件に受諾することを決め、今後の交渉を尾上利夫会長(69)に一任した。

 新救済策は、一時金150万円・療養手当月額1万円の支給と医療費の自己負担分の補償が柱で、団体加算金は「一時金の上乗せになる」として含まれない。ただし、団体活動に伴う交通費などの経費は「事務手数料」として認められている。PTは「出水の会」に対し、20億円積算の根拠を示すよう求めており、今後、金額を詰めることにしている。

 団体加算金は、団体が自由に使途を決められるもので、1995年の政治決着の際には未認定患者5団体に総額約49億4000万円が支給されたが、当時、「出水の会」は対象にならなかった。

 尾上会長は「名目は、団体加算金でも事務手数料でも構わないが、20億円を認めない限り、新救済策は受諾できない」とPTの譲歩を求めた。

 PT座長の園田博之衆院議員(熊本4区)は20日、PTによる政治決着に期待を表明していた「出水の会」と「水俣病被害者芦北(あしきた)の会」(事務局・熊本県津奈木町、約270人)に新救済案を提示し、21日に「芦北の会」が受諾を決めた。

 「出水の会」は未認定患者団体の主要4団体の中では最も会員が多く、PTは、水俣病問題の全面解決には同会の受諾が欠かせないとしている。
(2007年10月27日 読売新聞)

水俣病救済策、決着まで課題山積…訴訟派とチッソ説得へ

 水俣病未認定患者の新たな救済策について、与党プロジェクトチーム(PT、座長・園田博之衆院議員)は26日、都内の会合で、一時金150万円・療養手当月額1万円の支給と医療費の自己負担分の補償を柱とする最終案を決定。これに対し、受諾に前向きな団体がいる一方で、訴訟派の2団体からは改めて反発の声が上がった。「全面決着」には多くの会員に訴訟を取り下げてもらい、チッソから一時金の財源負担の了承を取り付けることが不可欠。今後、園田座長と訴訟派団体の話し合いや、チッソとの合意の成否が最終解決のカギとなる。

 政治決着の行方を左右する訴訟派団体。「加害責任のある国が救済対象者を選別するのは不合理」「公正な救済は裁判所しかできない」として集団訴訟を起こし新救済策を拒んでいる。PTが新救済策の申請期限を設けたことに加え、医療費の自己負担分が全額支給される現行の「新保健手帳」の申請期限も定めるとした決定を強く批判。今後も訴訟を続けると、敗訴時点で手帳の申請期限が過ぎていた場合は全く救済されないことになるからだ。

 「水俣病不知火患者会」(約2000人)の大石利生会長(67)は「裁判をやめさせて団体を切り崩す手段だ」と、訴訟の継続を断言。「水俣病被害者互助会」(約150人)の佐藤英樹会長(52)も「新救済策に応じるよう強制するものだ」とした。

 チッソも両団体が訴訟を継続したままでは新救済策に応じるのは困難だ。

 同社は1995年、最終的・全面的解決になると説明され、一時金など約317億円を負担した。しかし、この政治決着に唯一応じずに継続した「関西水俣病訴訟」で2004年、最高裁が国と熊本県の賠償責任を認め、現行の認定基準よりも緩やかに水俣病をとらえる判断を示したことを機に認定申請者が急増し、水俣病問題は混迷した。今回についても「訴訟が残るようでは、一時金の負担には踏み切りにくい」(同社幹部)としている。
九州発 週間ニュース YOMIURI ONLINE

しかし、なんなんだ、訴訟派が解決の邪魔をしているかのような論調は。

「解決にならない」 不知火患者会弁護団が抗議声明

 与党のプロジェクトチーム(PT)が水俣病未認定患者の新救済策を了承したのを受け、水俣病不知火患者会(大石利生会長、約二千人)が起こしている国家賠償請求訴訟の弁護団は二十六日、熊本市で会見し、「全面的な解決にはならない」として抗議する声明を発表した。

 声明は、新救済策について「被害の実態も解明しないまま、患者を抑え込もうとしている」と批判。問題点として(1)行政が対象範囲を一方的に決める公的診断では被害者が大量に切り捨てられる(2)新救済策や新保健手帳に受け付け期限を設けるのは、被害者に裁判を断念させようとするもので裁判をする権利を不当に侵害している(3)恒久的対策を求めた元環境相の諮問機関「水俣病問題に係る懇談会」の提言*1に反しているなどを挙げた。

 PTの園田博之座長が、不知火患者会など訴訟を進める団体を説得する意向を示したことについて、大石会長は「会うことは拒否しないが、公開の場で堂々と意見交換したい」と述べた。(久間孝志)
熊本日日新聞2007年10月27日朝刊

抜本的解決求め決議 九弁連、新救済策を批判

 九州弁護士会連合会(田中寛理事長)の定期大会が二十六日、宮崎市のホテルであり、「水俣病問題についての抜本的な解決を求める決議」を採択した。

 与党プロジェクトチームが検討している未認定患者に対する救済策について「内容は極めて限定的で不十分と言わざるを得ない」と批判している。

 抜本的な解決策の策定について、決議は「被害の全体を把握するため、行政による不知火海沿岸全域を対象とした健康調査が最も重要」と指摘。その上で、「従来の判断基準を改め、被害者全員を救済し、補償内容は関西訴訟最高裁判決を下回ってはならない」としている。

 また、解決策は時限的ではなく恒久的な施策とすることや、原因企業チッソだけでなく国と熊本県も経済的負担を負うことなども求めた。(奥村国彦)
熊本日日新聞2007年10月27日朝刊

[解説] チッソ説得へ 論議ヤマ場

 与党プロジェクトチーム(PT)は、水俣病未認定患者の新救済策づくりで難しいかじ取りを強いられた。原因企業チッソが新たな支出に否定的な上、自民党内にも抵抗があったためで、患者側にもその労を評価する声がある。ただ、救済問題の核心論議はこれからがヤマ場だ。

 二十五日固まった新救済策が実施にこぎ着けられれば、少なくとも数千人規模が救われる可能性はある。しかし、今、救済を求めている約一万八千五百人のうち、訴訟派二団体の約二千二百人は救済策を明確に拒否している。

 与党は「最終解決でなければ、チッソが応じない」と最後の政治決着を強調し、救済申し込みの期限も区切る。訴訟派は「小手先の患者抑え込みだ」と反発を強めるものの、訴訟継続か救済策かの選択を迫られ、揺さぶられている。

 一時金の負担を期待されるチッソの説得は、これからだ。汚染者負担の原則から、チッソが首を縦に振らなければ救済策は完結しない。救済に抗(あらが)うチッソの姿は、その構図を逆手にとり、患者側より主導権を握っているようにさえ映る。(亀井宏二)
熊本日日新聞2007年10月26日朝刊

新保健手帳交付申し込み 救済策実施で終了 与党PT検討

 水俣病未認定患者の新救済策を策定する与党のプロジェクトチーム(PT)が、救済策の実施と同時に、医療費だけを給付している新保健手帳の交付申し込みの終了を検討していることが二十四日、分かった。PTは救済策にも申し込み期限を設けるとしており、救済策を拒む訴訟原告が仮に敗訴した場合、判決時期によっては、なんら救済を受けられない事態に陥ることも想定される。訴訟派団体からは「原告らの切り崩し」との反発が予想される。

 PTはまた、公害健康被害補償法に基づく認定申請者と新保健手帳所持者の中から、「手足(四肢末しょう)の感覚障害」がある人を救済対象とすることを検討。前提条件に新保健手帳所持者を入れることで、救済策実施の前段階として、新保健手帳の交付申し込み終了をPRし、新保健手帳の交付申し込みを促す狙いがある。救済から漏れても、医療費の給付は継続する方針。

 新保健手帳は、環境省が関西訴訟最高裁判決を契機に新設した。メチル水銀汚染地域での居住歴とともに、何らかの感覚障害がある人を対象に、医療費自己負担分を支給している。九月末現在、一万二千八百四十六人が手帳を持っている。

 ただ、認定申請や訴訟の取り下げが交付条件となっており、救済策による政治決着を拒み裁判に訴える被害者団体の訴訟原告は、新保健手帳を持っていない。新保健手帳と救済策の申し込み期限が切られると、原告は裁判を継続するか、救済策に応じるか厳しい選択を迫られることになる。(亀井宏二)
熊本日日新聞2007年10月25日朝刊

新救済策、獅子島の会も承諾へ 全会員対象が条件

 水俣病被害者獅子島の会(滝下秀喜会長、約八十人)は二十二日夜、鹿児島県長島町の獅子島で役員会を開き、一時金百五十万円などを柱とする与党プロジェクトチーム(PT)の未認定患者の新救済策について、全会員の救済などを条件に承諾する方針を固めた。

 役員会には、滝下会長ら六人が出席した。「一時金二百六十万円が支給された一九九五年の政治決着と金額的に開きがある」などの声も出たが、「早期救済実現のためにはやむを得ない」との意見で一致。ただ、(1)全会員を救済対象とする(2)通院の交通費負担が重い離島の被害者への配慮を条件とした。近く、全会員の意見を聞いて正式決定する。また、承諾のための条件を要望書にまとめ、PTなどに送る。

 滝下会長は「裁判を闘えば時間がかかる。ぜひ一人残らず救済してほしい」と話している。

 新救済策では、PT座長の園田博之衆院議員が二十日、水俣病被害者芦北の会(約二百七十人)と水俣病出水の会(約二千九百人)に一時金百五十万円、療養手当月額一万円などを提示した。

 芦北の会は二十一日に承諾を決め、出水の会は一時金と療養手当の額は評価しているものの、団体加算金二十億円の支給を求めて引き続き交渉するとしている。一方、水俣病不知火患者会(約二千人)と水俣病被害者互助会(約百五十人)は政治決着を拒否し、訴訟を続けている。(久間孝志)
熊本日日新聞2007年10月24日朝刊

新救済案 「芦北の会」 承諾決める

 水俣病被害者芦北の会(村上喜治会長、約二百七十人)は二十一日、芦北郡津奈木町支部長会を開き、未認定患者の新救済策を検討している与党プロジェクトチーム(PT)の園田博之座長が提示した一人当たり一時金百五十万円、療養手当月額一万円などとする案を承諾することを全会一致で決めた。村上会長、津奈木、芦北両町の各支部長ら九人が出席。村上会長は冒頭、提示内容を評価した上で「今回応じなければ政治決着が崩れる可能性がある」と理解を求めた。

 各支部長からは「療養手当が当初の要求より低すぎる」などと上積みを求める声もあったが、「高齢の会員も多く、一日も早い救済のためにはやむを得ない」との意見が大勢を占め、最終的に全員が同意した。

 終了後、村上会長は「皆さんに賛成していただき、受け入れ態勢が整った。来週にも承諾書をつくってPTに提出したい」と話した。

 新救済策をめぐっては、園田座長が二十日、水俣市内で芦北の会と水俣病出水の会(尾上利夫会長、約二千九百人)の両会長らと会談し、一時金と療養手当の支給額を提示した。

 出水の会も、一時金と手当の支給額を評価し、受け入れる姿勢を示している。ただ、同会が求める二十億円の加算金については、支給の趣旨や金額についてPTの考えと開きがあり、引き続き交渉を続ける。

 一方、被害者団体のうち水俣病不知火患者会(約二千人)と水俣病被害者互助会(約百五十人)は政治決着を拒否して、訴訟を起こしている。(渡辺哲也
熊本日日新聞2007年10月22日朝刊

水俣病 「未認定」一律に救済 発症期区別せず 与党PTが骨格案決定 申請に期限設定
 自民、公明両党は18日、水俣病の未認定患者に対する新救済案づくりに取り組む与党プロジェクトチーム(PT、座長・園田博之衆院議員)の会合を都内で開き、救済対象を発症時期で区別せずに一本化し、一時金とともに療養手当を支給する新救済案の骨格を決めた。一方、実施する際は申請期限を設ける方針で、併せて現行対策の1つ、新保健手帳の申請にも期限を設ける考え。時限的な救済となるため「恒久対策にならない」との反発も予想される。

 PTは、一時金の金額など具体案の詰めを園田座長に一任することで合意。園田座長が患者団体のほか、一時金の負担者として想定する原因企業チッソとの合意を目指し協議を急ぐ。

 新救済案は、1995年の政治決着と同様、「四肢末端優位の感覚障害」が要件。当初は、95年当時から症状があったことをカルテなどで類推できる場合は一時金を増額する方向で検討したが、環境省が行った調査の結果、当時の症状を証明できる人はごく少数と判断。「被害者の中で差別が起き、かえって混乱を招く可能性がある」(園田座長)として、特例措置は見送った。

 新救済案による一時金と手当の支給には申請期限を設定。行政の責任を認めた2004年の関西訴訟最高裁判決以降に交付が始まった新保健手帳の申請にも新たに期限を設ける。同手帳の申請受付期間は5年がめどとされていたが、園田座長は「約束したわけではない」とし、短縮する可能性も示唆。PTメンバーは「申請者が毎月600人程度増えており、対策として期限を切らざるを得ない」と語った。

 また、95年の政治決着で患者団体に支払われた加算金については「当時のようなものを考えることはない」とした。

=2007/10/19付 西日本新聞朝刊=

2007年10月19日00時36分

認定基準の不可解

Finalventの日記7月5日より

毎日社説 水俣病救済 なぜ認定基準を見直さない 08:04

 この問題はよくわからないのだが、毎日の主張は科学的に正しいのだろうか? もちろん、科学的に正しいことと、社会の福祉・正義はある程度切り離してよいが。

この問題に関心をもたないひとにはだいたいこういうふうに映じているんだろうなぁ。
卓越した政治読図能力がありながらもったいないと思う。大気汚染和解問題についての論考についても同様のことを感じた。はっきりいって石原さんがどう動いたかなんてどうでもいいなぁ。この問題をあまり深く考えたことがないという印象をうけた。

私は、ほぼ習慣的に被害と原因者の関係という軸でとらえるので、この種の問いかけは無意味というか問いの立て方が間違っていると思ってしまうんですよね。

科学的に正しいことと、社会の福祉・正義はある程度切り離してよいというのも、同氏の文意的にはちょっとどうかなと思うし。(科学的に正しいことと政治は切り離して考えるべきであるから、認定基準は現行のままでよいという立論であればわかる)
原因と被害との因果関係は科学的に解明される必要があるし、その意味では正義は科学を前提とする必要がある。

認定制度で問題になっているのは、科学の問題というよりも政治的な割り切りの問題。公健法で救済される基準というものが原因と被害との因果関係と被害者分布に照らして妥当性を欠き、狭きに失しているのではないかということです。
行政によって暫定的に救済される範囲はここまですよ、という基準が多くの被害者にとって不自然にハードルの高いものとなっている点です。

そう、つまり救済の範囲の問題。だって科学は突き詰めれば、どんなに軽微な損害だって因果関係を突き止めることが原理的にはできる潜在性があるわけです。
最近微量汚染の問題が解明されつつあるように、です。やがては解明されるかもしれないが、そんな科学の成果をまっていられない被害者の存在。そこに政策が介入する。

ですから、どこまでを被害者として認定するかは実は科学の問題ではなく、政治の問題なのです。正しい唯一の解などないのです。

認定基準が厳しすぎるという問題の背景には、行政認定が事実上チッソから莫大な補償金をもらう資格になっているため、1600万円を給付するに値する基準として機能してしまっていることがあげられます。

たとえ、因果関係が認められたとしても、1600万円あげるほどではない人には認定できない、という判断が52年の判断基準の背景にあるということは30年来指摘され続けてきたことなんだ。

認定制度、なんだっけ的なひとはこちら
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20070315/p1
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20061104/p1

公健法ってなんだっけなひとはこちら
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20070309/p1

自らの首を絞めつつあるということ

私たち市民が中間集団の暴力性を告発し、公権力による徹底的な管理体制を求めるならば、以下のような公権力側の働きかけが起こるのは、ある意味で必然的だったのではないだろうか。

いじめや虐待は誰の責任なのか。学校におけるいじめ問題を学校が管理すべき事項である、教育委員会が監督すべきである、という論理の延長には国家の監督が待ち構えているのと同様の理屈だ。

サウンド・デモという、きわめて平和的なデモに対しても警察による介入を招く下地をつくっているのも、私たちの公共マインドではなかったか。

何が公共であるかの判断は、本来国民が努力して考えなければならなかったはずだが、私たちの戦後は、これを官僚の采配にゆだねてきた。私たちは成長の果実をうけとってきた半面、セフルガバナンスについての感覚を磨いてこなかった。隣人の被害には目をそむけてきた。汗をかいて苦労をして市民の横の連帯やきずなを大切にしようとはしてこなかった。

水俣の問題を考えるときに常に頭にあるのは、私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた、ということだ。
海に対して。河川に対して。そしてマイノリティに対して。仕事や生活が加害性をもってしまっている。
水俣の共同体の暴力性(差別)を遠巻きに見ている私たちの責任である。これを水俣の加害性を水俣の共同体の暴力性のみに収斂させていいかどうかは私は非常に大きな疑問を抱いている。
汚染者負担原則を拡大解釈すれば、当然日本国と国民の責任という話になってくるが、しかし日本国とはいったい何か。
水俣病事件の責任ということを考えるときに、私達がそういう構造のなかにいながら、責任を、国や県そしてチッソという社会的実在にのみ押し込めてしまったのではないだろうかということを私は感じている。

このことに無自覚であればあるほど、公権力の肥大化を招来するのではないかと私は思う。




教育再生会議:親向けに「親学」提言 母乳、芸術鑑賞など
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070426k0000m010157000c.html

教育再生会議:親向けに「親学」提言 母乳、芸術鑑賞など

 政府の教育再生会議は25日、親に向けた子育て指針である「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」の概要をまとめた。子どもを母乳で育てることを呼びかけたり、父親にPTA参加を呼び掛けるなどの内容。政府の有識者会議が家庭生活のマニュアルを示し提言をすることには会議内にも慎重論があるだけに、世論の評価は分かれそうだ。

 東京都内で同日開かれた主要メンバーによる運営委員会で示された。5月の第2次報告の前に正式発表する見通し。

 「親学」は、親も子育て学習をする必要がある、との認識から一部の保守系有識者が提唱している考え方。子育ての知恵や文化を伝えることが主眼で、再生会議では17日の同会議第2分科会(規範意識)で提言を行う運びとなった。山谷えり子首相補佐官や池田守男座長代理らが概要をまとめた。

 概要では「脳科学では5歳くらいまでに幼児期の原型ができあがる。9歳から14歳くらいに人間としての基礎ができる」と指摘するなど、11項目にわたり具体論を展開。「子守歌を歌う」▽「授乳中はテレビをつけない」▽「早寝早起き朝ご飯」▽「親子で感動する機会を大切にしよう。テレビではなく、演劇など生身の芸術を鑑賞」▽「インターネットや携帯電話の情報に『フィルタリング』を」など、家庭生活のあり方をかなり具体的に記述。子どもの発達段階に応じ「幼児期段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目」を身につけさせるよう呼びかけた。

 ただ同会議内にも、「政府が押し付けることか」(学識経験者)と政府版「家庭生活マニュアル」の作成を疑問視する意見が出ており、発表段階で内容に変更が加えられる可能性もある。母乳による育児推奨には「母乳の出ない母親を追い詰める」との専門家の指摘もある。【平元英治】

 ◇「親学」提言のポイント

(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児

(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない

(3)早寝早起き朝ごはんの励行

(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す

(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施

(6)企業は授乳休憩で母親を守る

(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞

(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施

(9)遊び場確保に道路を一時開放

(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる

(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める

毎日新聞 2007年4月26日 3時00分

児童虐待防止−自治体の責任が重くなる
http://www.asahi.com/paper/editorial20070422.html


 親や親に代わる保護者に虐待される子どもが後を絶たない。そんななかで、超党派の議員で進めていた児童虐待防止法の見直し案がまとまった。

 柱の一つは、都道府県などの児童相談所が警察と連携して、もっと立ち入り調査をしやすくしようというものだ。

 これまでは虐待の疑いがあっても、親が立ち入りを拒めば、手を出せなかった。それを改め、知事の出頭要求や立ち入り調査を拒めば、裁判所で令状を取り、強制的に立ち入れるようにする。

 住居への強制的な立ち入りは憲法にも触れる恐れがあるため、消極論が強かった。しかし、裁判所の認定を条件とするなら、乱用は防げるだろう。

 このほか、施設に入所した子どもを強引に連れ戻されないよう、親の面会を制限する。知事の指導にもかかわらず親が虐待を続ける場合には、子どもを施設に入所させたり、親権の喪失を裁判所に申し立てたりできるようにする。そんなことも見直し案に盛り込まれた。

 いったん保護した子どもが親に連れ戻されて、また虐待を受けるという痛ましいケースも多い。悲惨な虐待の増加を食い止めるためには、親の権利を制限するのもやむをえない。

 見直し案は、超党派が支持しており、いまの国会で成立する見通しだ。

 しかし、法律が改正されても、それだけでは万全とはいえない。児童相談所や市町村が連携し、機敏に動く仕組みをつくっていくことが欠かせない。

 住民から虐待の通報を受ける機会が多いのは市町村だ。ふだんから児童相談所や警察、学校などとネットワークをつくり、対策にあたることが求められている。だが、まだ手のついていない市町村が多く、地域差が目立つ。早急に態勢を整える必要がある。

 虐待の通報を受けたとき、児童相談所は48時間以内に安否を確認する。こんなルールを厚生労働省が決めたのは当然だろう。だが、相談所が素早く動いて子どもを救うには、職員を増やし、専門性も高める必要がある。

 京都府長岡京市で3歳の男の子が餓死した事件では、児童相談所が虐待の通報を受けていたのに、対応や判断を誤り、子どもを救えなかった。こんなことを二度と繰り返してはいけない。

 警察庁の調べによると、昨年の児童虐待事件は297件(前年比33.8%増)で、記録をとり始めた99年以降で最も多かった。被害にあった子どもも316人(同38%増)で過去最高だ。そのうち59人が亡くなった。

 見直し案が現実のものとなれば、児童相談所や市町村の権限は大きくなる。権限がない、というような言い訳は通用しない。その責任の重さを改めて自覚してもらいたい。

 同時に、住民一人ひとりが身近なところで虐待に苦しんでいる子どもがいないか気を配っていきたい。


与党救済策 「広義の水俣病、対象」 金額、症状で判断

  与党水俣病問題プロジェクトチーム(PT)の園田博之座長は三十日、PTが策定を進めている新たな救済策の対象者について、公害健康被害補償法(公健法)上の水俣病認定患者とは区別した上で、「広義の水俣病として救済する」意向を明らかにした。

 一九九五(平成七)年の「政治決着」で、約一万二千人の未認定被害者がチッソからの一時金などを受けた政府解決策では、対象者について「水俣病としての認定申請は棄却されるが、棄却はメチル水銀の影響が全くないと判断したものではない」など、あいまいに表現していた。

 園田座長は県議選の応援で訪れた水俣市で取材に応じ、報道陣が今回の救済対象者に「水俣病」の表現を使うかを尋ねたのに対し、「今度は(水俣病と)入れるつもりだ。(水俣病関西訴訟の)最高裁判決は広く水俣病ととらえ、国と熊本県に責任ありと言っているのだから」と述べた。

 同時に九五年の政治決着との整合性を図る必要性を強調した上で、六月中をめどにまとめる予定の救済策で対象者が受け取る救済金額について「症状に応じて判断することになる。(公式確認から)五十年もたっており、それしか方法がない」と語り、複数のランク分けを示唆した。

 与党PTの座長が「水俣病」と表現する意向を示したことに対し、水俣病不知火患者会が起こした国家賠償請求訴訟の園田昭人原告弁護団長は「公健法上の水俣病患者以外にも水俣病患者がいることを認めた点は意義があるが、救済策の全体像が見えず、まだ評価は下せない」と話した。(渡辺哲也、奥村国彦)
熊本日日新聞2007年3月31日朝刊

第二の政府解決策ともいうべき与党案が浮上し始めた。
政府の責任を前提としたものになっている点で大きな前進といえる。
具体的なことが明らかになってきたらまたかきまーす。

公健法の認定制度と水俣病の救済

まず、何から書けばいいかな。
水俣病の問題を書くときはさまざまな論点が錯綜しすぎていて、まず論点の整理が難しい。

そうだ、救済制度から記述しよう。

現在の行政による水俣病対策には時系列的に以下の4つがある。
(1)公害健康被害補償法(以下公健法)に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(1973年チッソとの補償協定により1600万円〜1800万円)
(2)1995年の政治決着による救済(一時金260万円+手帳)
(3)裁判所が水俣病と認めた「司法認定」者への賠償
(4)新保健手帳(医療費全額補助)

他方、チッソによる水俣病被害者に対する補償という観点からは、時系列的に次のような解決が図られてきた。
(A)1959年12月見舞金契約(死者30万円成人10万円未成年3万円→のちの裁判で公序良俗に反し無効となる。
(B) 1970年5月厚生省の水俣病補償処理委員会により示された補償案を受諾し和解契約を結んだ一任派に対する補償(生存者一時金220万円)
(C)公害健康被害補償法(以下公健法)に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(1973年チッソとの補償協定により1600万円〜1800万円)

行政による救済策(1)とチッソによる補償(C)がクロスオーバーしているのは、73年のチッソと患者互助会との補償協定以降、公健法による認定制度が本来の立法趣旨を離れて、73年チッソとの補償協定の対象となる被害者を認定する機能を担うことになったことを意味している。

そのうえで、下記の記事を一読してほしい。

8年ぶり認定 県、緒方さんに通知

  潮谷義子知事は十五日午前、公害健康被害補償法に基づき水俣市の緒方正実さん(49)を水俣病患者と認定し、緒方さんに直接電話で伝えた。熊本県による認定は一九九九(平成十一)年四月以来、約八年ぶり。四度も棄却された緒方さんが逆転認定されたことで、認定制度の在り方があらためて問われそうだ。

 緒方さんによると、知事は午前九時半に「たった今、認定手続きを終了しました。長い年月苦しませ申し訳ありませんでした」と電話してきたという。午後四時すぎ県職員三人が緒方さん宅を訪ね、認定を報告する。

 緒方さんは四度の認定申請をいずれも県に棄却され、公健法に基づき国に不服を申し立てた。

 国の公害健康被害補償不服審査会は、五〇ppmを超えると危険とされる毛髪水銀値が緒方さんの場合、県の調査で二歳時に二二六ppmあったことや、同居家族らに認定患者が多いことを重視。「不当な判断に基づくと言わざるを得ない」として昨年十一月、県の棄却処分を取り消す裁決を出し、再審査を命じていた。

 一方、〇四年十月の関西訴訟最高裁判決は、複数症状の組み合わせを必要とする国の認定基準とは異なり、感覚障害だけで広く健康被害を認めた。司法と行政の二重基準が生じ、認定審査会の判断が司法で覆る可能性があるため同審査会の機能が停止。緒方さんは再審査を受けられないままとなっていた。

 こうした中、県の認定審査会は今月十日、現行基準のまま二年七カ月ぶりに再開。緒方さんを「認定相当」と判断した。芦北郡出身で名古屋市在住の男性についても審査したが、再検診が必要との結論が出たとみられる。

 熊本県の認定患者は計千七百七十六人となった。水俣病の患者認定をめぐっては、新潟でも審査会が開かれ、新潟市が十三日に二人を新潟水俣病と認定した。休止状態の鹿児島県では当面、再開の予定はない。(久間孝志)
熊本日日新聞2007年3月15日夕刊

水俣病:「おわびし切れない」 潮谷知事、緒方さん水俣病認定で謝罪 /熊本

 水俣病の認定申請をしていた水俣市の緒方正実さん(49)に対し、県が水俣病と認定したことについて、潮谷義子知事は15日午後、県庁で記者会見した。同日午前に緒方さんに直接電話で認定を伝えて謝罪したことを明らかにし、近く水俣市に出向いて面会したい考えを示した。

 緒方さんには午前9時半ごろ、電話で認定を伝えたという。その際「処分権者として全責任をもって認定処分をした。不条理な思いで日々を重ねられたのではと思うと、おわびしてもおわびし切れない、と率直に話した」と明かした。

 潮谷知事は「緒方さんは水俣病と認定された家族と同様の生活をし、毛髪水銀濃度も高いのに認定されなかった。非常に申し訳ないような行政の状況があった」と謝罪。「行政不服審査会の裁決が出たとき、何とか法の壁を越えられるのではと期待した。認定審査会に諮問する際に『裁決は非常に強い拘束力を持っている』と伝え、私の方から従来にない踏み込み方をした」と振り返った。

 一方、認定した判断理由については「緒方さんにまず知らせ、どんな思いを抱かれるかを受け止めてからにしたい」と公表を避けた。【阿部周一】

毎日新聞 2007年3月16日

現在の認定基準はいわゆる1977年に環境庁熊本県に通知した「52年判断条件」が基礎になっている。それ以前の基準はどうだったかというと、1971年の事務次官通牒による通達がある。この基準によれば、典型的症状とされるラッセルハンター症候群に厳格にこだわることなく、曝露歴や家族歴なども勘案して専門医の判断に基づき認定することになっていた。52年判断条件は、71年の通達による基準があいまいであるとの指摘をうけ政府内で協議した結果、診断基準を明確化する目的で通知されたものである。この52年判断条件が事実上認定患者数をより厳格に絞り込む基準になった。

>法の壁を越えられるのではと期待
>従来にない踏み込み方

何をしたんだ潮谷知事。

認定基準を変えれば混乱する。浪花節的な記事もいいけれど、報じるべきことはきちんと報じてほしい。

しかし、そういう意味でいえば、現在の混乱の大元は04年の最高裁判決であった。最高裁は秩序よりも現実の救済を選んだ。実際のところ、大混乱を引き起こして国民世論を動員し国会に本腰を挙げさせるくらいでなければ、この問題は解決などしないだろう。

そのときに例えば共同体の差別の問題や、厳しい財政問題に突き当たり、そこで真の意味での国民性が試されるのだ。
地元熊本では、新保険手帳制度以降の国保財政逼迫が、共同体における差別の火種となりうることを示唆している。

水俣病:新手帳で国保ひっ迫 熊本・鹿児島の6市町が国に支援要望へ

 水俣病未認定患者対策として05年10月に始まった新保健手帳の交付者増加などで、被害地域の国民健康保険医療費が急増し、国保財政が急速に悪化している。熊本県水俣天草市、津奈木、芦北町、鹿児島県出水市、長島町の6市町は23日、厚生労働省環境省に財政支援を要望する。

 新保健手帳は、水俣病関西訴訟の最高裁判決(04年10月)で国などが敗訴したのを受けて始まった。交付されると、医療費の3割にあたる自己負担分が免除され、残る7割は一般の被保険者同様に国保財政から支出される。制度発足以来1年4カ月間で熊本、鹿児島両県の交付者は約8000人に上り、医療機関での受診者が増えて医療費が急増し、国保財政が厳しくなっている。

 水俣市の場合、国保会計の単年度赤字は新保健手帳交付前の04年度は約3543万円だったが、05年度は約8551万円に増えた。06年度は約7454万円となる見込み。赤字分は繰越金で埋めているため03年度当初約2億8400万円あった繰越金は07年度当初で約6100万円に激減するとみられる。

 このままでは近い将来、預貯金に当たる基金の取り崩しや保険料引き上げの可能性が出ており、国に対し、現在、一部しか支払われていない負担増に伴う特別調整交付金を全額交付するよう求めることになった。

 吉本哲裕・同市福祉環境部長は「国保財政がひっ迫すれば、住民間に不必要なあつれきを生みかねない。運用実態に見合った支援をお願いしたい」と話している。【平野美紀】

毎日新聞 2007年2月23日 西部朝刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/env/minamata/archive/news/2007/20070223ddp041010010000c.html


04年判決後、国はこれまで以上に被害者救済に力をいれるようになった。そのひとつが新保健手帳である。この制度は05年10月からスタートしている。
公健法による認定申請者(未認定)に対する医療費支給制度制度である。これは、最高裁判決を受けた環境省が新救済策の柱として打ち出したものである。

 新保健手帳というからには、実は旧保健手帳にあたるものがある。しかし旧保健手帳の対象者は自動的に新保健手帳に移行できるわけではなく、つまり旧手帳を改訂したものではない点で新保健手帳という言い方は紛らわしい。要は、対象者が新しい手帳である。従前の保健手帳は1995年の政治決着時にやはり医療費の助成を目的として行政認定申請者を対象に制度化されたものである。しかし、従前の保健手帳では医療費助成に上限が設けられたうえ、被害者を水俣病とは決して認めない前提のうえに成り立っていた。
95年の政治決着の際に盛り込まれた文言は水俣病とは認定できないが

メチル水銀による影響が全くないわけではない

というラベルであった。

95年政府解決策とは、以下の解決スキームである。
・「水俣病とは認められないが症状が重い者」に一時金260万円と医療費が無料になる「医療手帳」(約1万人)の交付、
・比較的症状が軽い者に月額治療費7500円を限度とする「保健手帳」(約1000人)の交付
ただし上記の救済策は、訴訟及び認定申請の取り下げと引き換え条件とする。


これでわかってもらえただろうか。
冒頭の水俣病救済策4種のうち、(2)政府解決策を選択した人は、保健手帳による救済のみがうけられる。
訴訟を継続した人たち(例えば04年最高裁判決を勝ち取った関西訴訟の原告たち)及び行政認定申請中の人たち、未認定となったが政府解決策を受け入れなかった人たちは、(1)〜(4)のいずれにもあてはまらずに、現に受けられる救済が全く存在しないことを。

95年の政府解決策以降、公健法による認定を求める、あるいは裁判を継続するということはそういうことなのだ。


05年の新救済策では、医療費の自己負担分の全額支給などが盛り込まれている。
その意味では行政の救済措置のあり方としては大きな一歩といえよう。
しかし、新手帳がスタートした同じ年の10月、1000人を超える原告団が新たに国、県を相手に裁判をおこした。
また、新手帳制度にもかかわらず、従来の行政認定への申請者が急増していた。新手帳はほとんど見向きもされなかったのである。

認定申請5000人に 最高裁判決後 「手帳」移行333人のみ(熊本日日新聞 2007.2.17)

二〇〇四(平成十六)年十月の水俣病関西訴訟最高裁判決後の公害健康被害補償法に基づく熊本、鹿児島、新潟三県への水俣病認定申請が十六日、五千人となった。

三県によると、認定申請者は熊本県三千二百二十七人、鹿児島県千七百五十一人、新潟県二十二人。このうち初申請は熊本県で92・9%の二千九百九十七人、鹿児島県で92・1%の千六百十二人に上っている。

認定申請者のうち、水俣病不知火患者会の千百五十人が、国と熊本県チッソを相手取って損害賠償請求訴訟を起こしており、三月には百人以上が追加提訴を予定。新潟県でも未認定患者が三月、国と原因企業の昭和電工に損害賠償を求めて提訴する見通し。

一方、環境省が〇五年十月から受け付けを始めた新保健手帳の交付者は三県合計で七千八百七十九人。交付条件である認定申請取り下げに応じ、新保健手帳に移行した認定申請者は4・2%の三百三十三人にとどまっている。

最高裁判決は、複数症状の組み合わせを求める現行の認定基準とは異なる基準を採用し、感覚障害だけで水俣病と認めた。これを機に基準緩和への期待が広がり、認定申請者が急増した。

新手帳交付には、実は二つの条件があった。

係争中の訴訟と行政への認定申請の取り下げであった。

新保健手帳 県が実施概要案「交付後の裁判可能」(熊本日日新聞 2005.9.22) 

裁判と認定申請、新保健手帳との関係について、県は(1)新保健手帳の交付を受けた人でも、訴訟や認定申請が可能(2)訴訟や認定申請中は新保健手帳は失効し、医療費などの給付が停止(3)現在認定申請中の人も受け付け期間内(当面五年)に新保健手帳対象者と認められていれば、認定申請の棄却後に交付を受けられる―などと説明した。

委員から「新保健手帳で医療費支給を受けながら裁判ができないのは権利の侵害」との意見が出たが、県は「裁判、認定申請、新保健手帳のどれにするか、本人がいつでも自由に選択できる。裁判の権利を制限するものではない」と理解を求めた。これに対し杉森委員長は、自民党水俣問題小委員会や環境省に改善を働き掛ける考えを示した。

あんまりではないか。ましてや加害者がいうことなのだろうか。
結局のところ、「あなたを水俣病とは認めないが、医療費が欲しければ、認定申請も訴訟も放棄しろ」という条件付きで交付されるのが新保健手帳なのである。
もしかりに95年の政府解決策が百歩譲って法的な意味での和解であると理解すれば、95年政府解決策において訴訟の取り下げを条件とすることはひどいとはいえ、法的な利益を侵害しているとまではいえなかっただろう。
しかし、05年の新保健手帳は「水俣病総合対策医療事業」の一環として、新たな医療制度がスタートします、というものであり、しかも最高裁判決による国・県の不法行為の認定が踏まえられているはずである。さらに法的な和解でもなんでもないのに、はじめから「ただし認定申請する人や訴訟をやめない人は手帳をあげません」などという条件を付す行政事務は、法の下の平等憲法14条)に反するのではないだろうか。


新手帳を受け取ったある被害者はいう。

「ずいぶん遠回りをしたっです」

 先月26日に届いたばかりというその青い手帳は、まだ新品の輝きがあった。「水俣病総合対策医療事業」と記された新保健手帳。女性(70)は、大切そうに手に取ってつぶやいた。「ずいぶん遠回りをしたっです」―。
 取材に訪れた日の前夜も発作に襲われたという。就寝中に突然筋肉が硬直する。地元で「カラス曲がり」と呼ばれる、筋肉の引きつり。水俣病特有の症状だ。

 何とかベッドから起き上がると、明かりもつけず部屋の中を歩き回りキリキリ痛む足を少しずつ伸ばしていく。「痛みが引くまで長いときは一時間もかかるとです」。20年近くも前から、毎晩続く。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_055.shtml

この女性は、95年の政府解決策の際にはどういう決断をしていたのだろうか。政府解決策にのらなかったことは新手帳を初めて取得したという事実からわかるが、では認定の申請をつづけていたのだろうか。あるいは裁判闘争に加わっていたのだろうか。想像してみてほしい。



上記記事の続きにその答えがある。

「われげん、むこどんとじっさんな、水俣病のゼニばもらわいたでな」(あの人のだんなさんとじいさんは、水俣病のお金をもらったらしい)。

 そう言い放った同僚の女性は、右手をダラリと胸の前に垂らして震わせ、口をゆがめてよだれを流す格好までした。周りから笑い声が上がった。

 11年前、働いていた真珠工場で見た光景。その年、政府は政治決着として未認定患者に260万円の支払いを決めた。同僚たちは、一時金を受けた隣の御所浦島の患者のことをうわさした。差別とねたみを感じた。

 「水俣病って疑われるだけで、白い目で見られたっです」。小さな漁業の島。被害発生となれば漁と生活は壊滅する。結婚や就職。子どもたちへの影響もある。島を訪れた水俣病の支援者や研究者たちは、玄関戸も開けてもらえずことごとく追い返された。島は丸ごと水俣病を封印した。
 意を決して認定申請などを行う者は、異端視された。″掟(おきて)″に逆らう者。「金欲しさ」と陰口が飛んだ。

 夜の激痛に加え、数年前からは両手の小指が変形し始めた。手のひらはしびれたままだ。それでも「水俣病なんて口が裂けても言えんじゃった」と女性は明かした。

現実には地域社会の差別による圧力とても被害の救済を訴えることのできる社会ではなかったことが思い知らされる。
環境省が認定申請者や新保健手帳保持者を対象に実態調査をいくらやったところで、被害の実態がつかめるものではないことがわかるだろう。

(余談だが、それでも04年まで希望者に検診を行っていただけで全くやっていかなったことに比べれば3ミリくらいは進歩したかもしれない。私としてはこの辺からして政府の対応は不合理ないし許されざるクレイジーっぷりといわざるを得ないと思うんだけどね。とっとと調査しようよ。水俣病拡大責任の張本人なんだし。
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20051124/p1参照

そもそも関西訴訟において、原告らの水俣病による被害を公健法より低い基準で認定たうえ水俣病拡大の責任は行政にあると最高裁に指摘されたのであるから、加害者である国としては裁判の当事者以外についても同様の被害の実態があるか否かを少なくとも被害エリア全体にて面的に速やかに調査する義務がある。公健法は公害被害を面的にとらえているのだから整合性をとるべきだということである。恐らく法的な責任というアスペクトから切り取った正論は以下のようになろう。

・経済成長に伴い公害が社会問題になりました。公害は面的な被害です。被害実態や加害者の特定、その因果関係の把握が困難です。
・公害が不法行為によって引き起こされたのだとすればその救済は民事法の原則によります。
・しかしそうすると救済に途方もない時間がかかるので行政は暫定的に救済措置を講じます。仲裁や調停→公害立法の制定〜そのつど最終的に費用は原因者が支払うべきことを確認(日本版PPP)。水俣病も公害として認定されました。
・1973年熊本地裁判決によりチッソ不法行為責任が確定、判決に基づき、チッソと患者団体の間で補償協定が締結されます。その際に患者の認定は環境庁・県が選定した委員によることが取り決められました(認定制度の始まり*1)。この時点では国・県の責任は明らかになっていませんでした。そこで一部の被害者は裁判を続行しました。
・その間、行政は公害の調停や救済措置を講じ、最終的な解決と称して政府解決策を提示しました。また原因者負担論を貫徹すべく原因企業たるチッソに金融支援まで続けている間に、発生から半世紀も経過していました。04年、ようやく司法が行政の不法行為責任を認め、加害者と被害、因果関係が最終的に確定されました。被害の認定は行政の設定した救済基準よりも緩やかなものでした。しかし裁判の原則上、判決の効力は当事者にしか及びません。
・加害者の責任としては、沿岸地域に広範囲に同様の被害を被っている可能性があることは明らかなので、潜在的な被害者を救済するべく、面的な調査を行い、これまでの暫定的な救済方法を見直す必要があります。

しかし、現実には、あとから出てきた事実認定を基礎に救済スキームを組み直そうとすると、半世紀の間のさまざまな段階でなされてきた救済措置との公平性が保てなくなってくる。その苦悩はわかる。
ただ、そうした施策の基礎となるべき実態調査すらしないとなると、ちょっと頭おかしいんじゃないの、といいたくなる。)


06年5月、私は水俣病公式発見から50年の記念フォーラムに参加するため日比谷公会堂に足を運んだ。

そこには今回初めて認定をうけた緒方正実さんの姿があった。
壇上で前夜に発作を起こし必ずしも体調のよくないことを断ったうえで、彼は朴とつと短い講演をした。認定を4度も棄却されつづけた彼が行政の認定にこだわり続けたのは、水俣病でもないとすれば「では、いったい俺のこの症状はなんだというのだ」という切実な思いからであった。

石牟礼道子氏は体調不良のため欠席、代わりに講演したのが田口ランディ氏だった。ランディ氏の講演は水俣の問題を次の世代に託された者の戸惑いに満ちたものであった。「怒りという言葉しか出てこない」ランディ氏ははき捨てるように問いかけた。
また昨年は公害原論で有名な宇井純氏が逝去。水俣病と向かい合い、国家に立ち向かった世代が立ち上がれなくなって、この世を去ってゆく。
行政や立法府がどんなに知恵を出そうが放置しようが、やがては水俣病という管理問題そのものは被害者がいなくなることによって消滅するだろう。

しかし、この国の半世紀にわたる罪業だけは刻印されるのである。


今回の緒方さんの認定結果は、もし従来の基準を緩和した形で出されたものだとすれば、波紋を呼ぶことになるだろう。

波紋けっこうじゃないか、と私は思う。
しかし、この意見は所詮、水俣から遠く離れた土地でなんら人間関係のしがらみを背負うことのない者の浅薄な見方かもしれない(無責任な言い方ともいうが、私はこのような意味での無責任という用法が本来的な意味とかけ離れているので大嫌いである)。
ただ、行政が4つの救済策を公平にならす調整にとらわれすぎていると、そもそも裁判による救済こそが究極的な意味での法的な正義の実現であり、それを前提とした上での公健法ではなかったか、という自己の立脚点が見失われる。見失われる結果、人々は真実をもとめて裁判闘争へむかうのである。この悪循環をとめることはできないだろう。

*1:さらにその源流は1959年12月に見舞金契約の対象者を審査するため厚生省が設置した「水俣病患者診査協議会」にさかのぼる。

水俣病認定審査会 10日再開

水俣病認定審査会 10日再開
これは、熊本県が県議会の特別委員会で明らかにしたもので、10日に再開される水俣病の認定審査会では2人が審査の対象となります。水俣病の認定をめぐっては、最高裁判所が国の認定基準より幅広く水俣病の被害を認めましたが、国が認定基準を変えなかったため、熊本県では、国と司法の判断が分かれたままでは審査ができないとして委員が決まらず、審査会が開けない状態が続いていました。しかし、国の認定基準を満たさない人について与党のプロジェクトチームが新たな救済策の検討を進めていることなどから、委員のめどがつき、平成16年以来2年7か月ぶりに10日に熊本県で認定審査会が開かれることになりました。認定の基準について、熊本県環境生活部の村田信一部長は「県の判断で認定基準を変えることはできない。委員の医師には従来どおりの基準で審査するようお願いしている」と、9日にあらためて説明しました。最高裁の判決のあと申請者が急増して、熊本県では現在3200人余りが審査を求めており、認定審査会は今後2か月に1回のペースで開かれる予定です。水俣病認定審査会をめぐっては、新潟でも、7日、6年ぶりに再開されています。
もどる NHKニュース 3月9日 18時57分

以前にどこかで書いたかもしれないが、私の政治的スタンスからすれば、北朝鮮拉致問題と同等かもしくはそれ以上にニュースとしてのプライオリティをおくべきだと考えているのが、現在の水俣病問題である。被害者を放置した責任だけでも拉致問題の100倍重いと私は思っている。
拉致問題は被害者になんら落ち度はなく、日本国の責任も不作為が厳しくとがめられるほどのことであったかどうかは疑問である。現在の政府も解決に全力をあげている。問われているのは日本政府の姿勢よりもむしろ北朝鮮の姿勢である。

他方、水俣病で問われているのは日本政府の姿勢であり、日本国、そして私たちのあり方である。
水俣病問題を考えるとき、つくづく日本国という国はひどい国家だと思わざるを得ない。


04年10月の最高裁判決が「従来どおりの認定基準」すなわち1977年判断基準を否定したことにより、認定審査会がフリーズしたと報じているが、なぜ認定審査会が機能を停止してしまったかを理解するには、縦軸と横軸的な思考を要する。
まず一方の軸として、水俣病をめぐって少なくとも次の3つの過去の解決策の概要をおさえておく必要がある。
1.公害健康被害者救済特別措置法(1969)〜公害健康被害補償法(1973)
2.1973年チッソと患者団体との間に締結された補償協定
3.1995年政治的解決((今回は割愛します。95年の政治的決着とは参照))
これはリスク管理の局面である。

もう一方の軸は、不法行為責任という観点である。
A.チッソ(1973年熊本地裁
B.日本国(2004年最高裁
この両加害者において不法行為責任が認定されたタイムラグが水俣病問題の混迷を深めている大きな要因でもある。


戦後高度成長を駆け上がろうとしていた日本が直面した公害問題。

国民の生活をまもる管理責任を負う行政にとって、公害の特徴は、まず第一に、加害者(不法行為責任をおう者)がいったい誰なのか、そしてどこまでが被害者なのか、そして因果関係が明瞭ではない点にあり、第二に、発生時点において、その影響を社会的にどの程度まで受忍すべきかについての社会的な合意が存在しないなどの特徴があるものとして認識されていた。(汚染者負担の責任とは何か〜環境白書にみる費用負担論(責任論)参照)

この認識が暗黙のうちに含んでいるのは、不法行為責任という民事法上の原則である。

そもそも私人間の紛争は、民事上の手続きを通じて解決し、救済されるべきである、というのが近代市民社会における制度設計であった。損害に対して原因者が相当の賠償責任を負うのは、私人間の紛争を解決する民事法(不法行為法)の大原則である。これは社会正義あるいは衡平という観点から要請された原則である。

ところが、いわゆる公害問題は、民事上の解決枠組が予想していない問題をつきつけた。たとえどこかの工場が毒液を垂れ流した結果、住民に被害が及んだとしても、それは市民社会の原則としては、私人間の紛争にすぎない。
加害者を容易に特定できず、その間に被害が拡大したとしても、ただちに公費をもって救済にあたるべきという論理的な結論は導かれない。

公害の場合、民事訴訟上の救済には「原因と被害との因果関係の立証」や「原因者の特定」など事実認定にかかわる法技術的なハードルが高く、解決までに長大な時間を要することが多い。司法による民事上の救済を待っていたら被害が拡大し、手遅れになることは誰でも想像できることである。原因者が誰であれともかく被害が拡大することが予見され、行政措置を講ずれば更なる被害を防ぐことが予見されるにもかかわらずとりうる措置を講じなかった場合には、行政あるいは立法の不作為に当たる可能性がある(国家賠償法一条についてその1国家賠償法その2参照)。

そこで公害問題に直面した日本は、救済のためのスキームとして”民事上の原則をふまえつつ”迅速かつ円滑な救済手段として、行政上、特別の救済措置を模索することになった。
このスキームが
1.公害健康被害者救済特別措置法(1969)〜公害健康被害補償法(以下 公健法)(1973)
である。

69〜73年の間は戦後もっとも多くの公害立法が作られた時期である。

ここで重要なことは、暫定的な救済措置を講じるにあたって、司法による民事上の不法行為責任の認定が究極的な解決策である、という原則を確認していることである。
1971年公害白書は公害健康被害者救済特別措置法の立法趣旨について、この問題意識を明確に意識しつつ次のように述べる。

現段階においては公害による被害の救済には長期間を要しており、また、確実に救済を受けられるともかぎらないというのが実情である。さらに、公害紛争処理制度による解決や無過失責任主義の理論等が司法制度に取り入れられた段階における公害問題の解決についても、かなりの時間を要するものと考えられる。公害の影響による疾病にかかっている場合には、その被害者は公害の原因者に対して裁判等によって損害の補てんを求めることができるのは当然のことであるが、その解決を得るまでの期間については、財産等の物的損害に対する事後的な補償の場合とは異なって、日々治療等を必要とするものであり、一刻も放置できないという緊急性を有している。

 したがって、司法上の救済措置が究極的な解決手段であるという原則に立ちながらも、それとは別に、迅速かつ円滑な救済手段として行政上特別の救済措置を創設すべきであるという趣旨に沿って44年12月に制定された公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法に基づく健康被害救済制度は、今後いっそう充実改善してゆかなければならない。http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/hakusyo.php3?kid=146&serial=11937&kensaku=1&word=%8C%B4%88%F6%8E%D2


ん〜眠くなってきた人すいません。

公害健康被害者救済特別措置法を受けて制定された公健法は、二種類の公害被害を対象とした救済立法である。
ひとつは、大気汚染の影響による疾病(慢性気管支炎、気管支喘息、喘息性気管支炎、肺気腫、およびそれらの続発症)であり、もうひとつは、水俣病イタイイタイ病および慢性砒素中毒を指定疾病であった。

この立法目的は被害者に対して医療費、補償費などの支給や公害保健福祉事業を行うことにより、公害健康被害者を保護することであるが、被害者の認定について、非常に大胆な制度的な割り切りを行っている。すなわち、公害の被害を空間的な広がりとしてとらえたうえで、指定地域を設けるという手法を採用した。その結果、第一種指定地域(大気汚染)は、道路隔てたこちら側と向こう側で救済される範囲をわけることになった。たまたま指定地域範囲を区画する道路の外側にいたからといって救済されない不合理さに対する唯一の弁明は、「これは将来の究極的な解決としての民事責任の確定を待つまでの間の時限的な措置である」というものである。

こうして公害に対して政府が奮闘的な取り組みを進めるなか、1972年、OECDの勧告を受けて、日本でも汚染者負担の原則(以下PPP)が議論されるようになった。PPPは、資源配分の合理性と国際貿易上のゆがみを是正する目的で提起されたルールである。あくまで汚染者の公害防止費用の第一次的な支払い(Polluters Pays)を定めたものであって、とりわけ事前の公害防止費用の負担について定めたものであった。しかし、現実に悲惨な公害を引き起こし、被害者の救済を火急の課題としていた日本においては、PPPといいつつ、資源配分の合理性・国際貿易の公平という観点よりも、原因者責任の原則という側面が重視されるようになった。
1976年3月の中央公害対策審議会の答申では公害についての費用負担について次のように述べられている。

昭和51年3月の中央公害対策審議会答申 公害に関する費用負担の今後のあり方について(要旨)

公害に関する費用負担のあり方については、環境資源の有効利用、公平の確保、社会的正義の実現等の見地から、汚染者負担原則を基本としつつ、その具体化に当たっては、次の諸点を考慮すべき。

(1)負担すべき費用の範囲

  汚染防除費用のみならず、環境復元費用、被害救済費用についても、基本的には汚染者が負担すべき。・・http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/img/214/tb1.2.1.1.gif

こうして日本では、原因者負担といった従来型の民事上の責任論をベースにしながら、環境復元費用や被害救済費用といった事後的な救済費用にも汚染者負担の考え方が採り入れられることとなった。OECDの定義と際立った違いは、日本版PPPが効率性の原則というよりもむしろ、公害対策の正義と公平の原則としてとらえられている点にある。

結局のところ、最終的には、司法が解決しますよ、という共通の前提は、それまでの暫定的な救済措置の不合理な側面は究極の司法的な解決までの中継点ですから我慢してくださいね、という政府の言い逃れの道具として機能していたように私にはおもわれる。

しかし、かりにこの推測が妥当だとすると、皮肉なことに、この大義名分あるいは弁解としての日本版PPP=原因者責任論の正義は、実現可能な現実的な政策の実行を可能にしたと同時に、他方で、現実には実践不可能な要求を加害者に突きつけることにもなった。

それが「原因者の負担が高額になりすぎる」という問題であった。
加害者の首を絞めすぎると加害者が死んでしまう。誰にでもわかる理である。

1973年熊本地裁判決をうけてチッソと患者団体との間に補償協定が締結された。
この協定は、水俣病患者家庭互助会、水俣病患者家族新互助会及び水俣病患者家族平和会とチッソの間で結ばれたものであるが、締結時以降に認定を受けた患者についても、その希望に応じて適用されることとなっている。
つまり、公健法で水俣病患者と認定すると、チッソと被害者の間の補償協定によりチッソが被害者に賠償することになる。この協定では、行政認定とともに平均一律1600万円相当の一時金補償が実施されることとなっており、公健法よりも有利なので、実際上、公健法からは支払われないことになる。

チッソ不法行為責任が確定し、補償協定によりチッソが賠償義務を負うようになると、チッソの賠償破産リスクが高まった。
熊本県によるチッソへの金融支援が始まるのは1978年のことである。大義名分はPPPであった。以後現在に至るまで、チッソへの金融支援は続けられている。

一方、チッソへの金融支援と前後して、公健法にもとづく患者認定制度にひとつの出来事が起きた。
1977年、環境庁が「後天性水俣病の判断条件」を示したことである。いわゆる52年判断条件である。
この基準は、水俣病に多発する症状、すなわち(1)感覚障害(2)運動失調(3)平衡機能障害(4)求心性視野狭窄(5)中枢性眼科障害(6)中枢性聴力障害(7)その他――のうち、複数の組み合わせを要求している。
患者認定のハードルが高くなったのである。

公健法は、究極的には民事責任を踏まえ、簡易迅速な救済を目的とした措置である。したがって暫定的な救済措置の不合理な側面は究極の司法的な解決までの中継点ですから我慢してください、これが制度的な割り切りに対する弁明であるとすれば、一部の被害者が公健法による救済の道を拒否して、あるいは拒絶されて、裁判闘争に身を投じたのはごく自然な経緯であったというほかない。


裁判闘争に立ち上がった人たちのなかには、被害地域の熊本や鹿児島から遠く離れた県外の関西在住の被害者たちもいた(水俣病関西訴訟)。水俣病を発生させ、被害を拡大させ、被害者の救済を放置し、切り捨てた国・熊本県チッソの責任を追及するのが大きな目的であった。
1982年のことである。
彼らは、熊本、鹿児島両県の不知火海沿岸より、チッソ水俣工場からのメチル水銀を含む汚悪水たれ流しにより海を破壊され、また、その汚悪水で汚染された魚介類を多食して健康被害を蒙った多くの人たちが、生活の糧を求めて移り住んだ人たちであった。

もし、04年最高裁判決を勝ち取ったこの訴訟がなければ、水俣病拡大の行政責任は恐らく全く明らかにされなかっただろう。
04年判決は、チッソ、県・国の加害当事者がどれくらいの割合で責任をおうべきかまで結論づけており、原告らにとって究極的な司法解決だったとともに、52年判断条件よりはるかにゆるい基準で水俣病の被害を認定したことによって、行政が従来公害問題の特質として認識してきた

被害者の側でどこから被害を受けたか、また、その影響を社会的にどの程度まで受忍すべきかが明瞭でなく、発生者の側でも通常の生活活動等に伴って生ずることが多いことから原因者としての意識が希薄な場合が多い。(1969年公害白書より)

公害に伴う民事責任の確定困難といった特徴は、実は、水俣病公式発見より50年近くを経てようやく最終的な克服を見出していたものである。


04年10月15日の最高裁判決をうけて、認定基準をめぐり環境省内に激震が走った。環境庁水俣病の認定基準を定めたいわゆる【五十二年判断条件】よりはるかに緩やかな基準で水俣病最高裁が認定したからだ。判決後、熊本日日新聞はこう記す。

「もし感覚障害のみで公健法上の水俣病患者と認めれば、政府解決策の対象者も含まれ膨大な賠償費用が発生する。それはチッソの存立はもちろん、地域に混乱を与え、これまでの施策を根底から覆すことを意味する」。政府関係者は、問題の複雑さをこう解説する。http://www.kumanichi.co.jp/minamata/tou/tou03.html

しかし、司法による民事上の責任の確定こそが、究極的な解決である、という建前のもとで、暫定的な救済措置にあたって制度的な割り切りをしてきた行政は、本来的なことをいえば、司法の判断を尊重するべきであろう(もちろん、司法でさえ非常に限定された責任の追及にすぎず全面的な責任の追及ではないことはいうまでもない)。

それが実は出来もしない絵に描いた餅であったことは、日本版PPPが、原因者にとってあまりに重過ぎるという課題に突き当たざるをえなかった70年代後半からすでに分かりきったことであった。

それだけではない。
被害者に対して緊急の救済措置を講じ、加害企業の倒産を防ぐべく金融支援までしていた国・県が実は水俣病拡大の当事者であったことがこの判決で明らかになった。
つまりすでにチッソに金融支援を始めていた80年代前半の時点で、司法による判断が示された場合の混乱を予見できたはずである。もしかすると、国は絶対に負けないと思い込んでいたのかもしれないが、裁判過程で認定された国家の罪業をみるかぎり、国が悪くなかったと言い張るのはあまりに苦しい。ほとんど確信犯である。




73年のチッソとの補償協定を変更せずに、公健法の認定基準のみを最高裁基準に合わせると、膨大な賠償費用が発生し混乱するのは明らかである。行政が一民間企業と患者団体との間の契約について強制力を行使することはできない。
しかし、水俣病の行政責任が明らかになった以上、政府及び県は共同不法行為者として73年の補償協定に関与する資格がある。

しかし、いまだこじれた糸を解きほぐせず、判決から2年半が経過している。判決後に新たに認定申請した者は4千人を越えた。

先月、熊本弁護士会は国・チッソに対して警告書を提出した。

九弁連「最強の手段」 被害者放置、国などへ警告書

環境省の担当課長(左)に、「警告」を出した理由を説明する九州弁護士会連合会の河西龍太郎理事長(右から2人目)=東京・霞が関

  九州弁護士会連合会(九弁連)は二十三日午後、国や水俣病の原因企業チッソに対し、不知火海沿岸住民の健康調査や水俣病の病像解明、認定基準見直しなどを求める警告書を出した。

 九弁連は二〇〇五(平成十七)年九月、水俣病被害者二団体の人権救済申し立てを受けて調査。国、熊本、鹿児島両県、チッソが、被害者救済を長期間放置している不作為を「重大な人権侵害」と判断し、十七日に九弁連の意思表示としては最も厳しい「警告」を初めて出すことを決めた。

 九弁連の河西龍太郎理事長、安部尚志人権擁護委員長らが東京・霞が関環境省や、同・大手町のチッソ本社を訪れ、警告書を担当者に手渡した。河西理事長は「被害者は一日も早く救済されなければならない。警告を一つのきっかけに全面解決してほしい」と、それぞれに訴えた。

 応対した同省環境保健部の森本英香企画課長は「与党も救済に向けて検討を進めている。それに連携して、取り組みを加速させたい」と回答。チッソ総務人事部長の大衡一郎執行役員は受け取り後、「政治、行政の力を借りて解決したい」と述べた。

 提出後、同省で会見した河西理事長は「警告は九弁連ができる最強の手段。出しっぱなしという形にはしない。警告が無視された時は、現在係争中の訴訟弁護団の支援や、全九州で被害者を提訴させることなどを理事会に提案したいと個人的に思っている」と語った。(亀井宏二)

熊本日日新聞2007年2月24日朝刊 水俣病百科

認定審査会のフリーズ問題は、過去にさまざまな形でばらばらに実施されてきた救済措置の不整合の虚飾を露呈するものともいえるのである。
あるいは、不整合が積み重なった結果、原則どおりの司法救済がほとんど困難な状態になってしまったのかもしれない。

環境省水俣病懇談会の提言を読む(水俣セミナー緊急企画)11月4日

えー、まぁ行ってきました。

この小池前環境相から依頼された「水俣病に係る懇談会」の議事録については、今年の前半から5月にかけて、折に触れて読んできた。その内容を踏まえて私は、戦後史という座標軸で水俣病を捉えたいと思い、いくつかのエントリで雑然とながらもスケッチしてみた。

水俣病事件は、そうした技術立国への夢、そして大きな経済成長への夢といった、日本社会の光り輝く希望と期待の影で、ひっそりと発生した。
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20060503

http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20060504
http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20060505


その後、私事ではありますが私の職場の部署変わりに伴い、急に多忙な毎日が始まり、残念ながら丁寧にブログを更新したり読んだりする余裕がなくなり、9月19日に発表されたという提言も全く読む暇がなかった。疲れ果てて、はてな人もやめたくなるだうな〜ぶりだった。


さて、今回のセミナーでは、懇談会の提言のきわめて重要な骨子をつくった柳田邦男氏、そして懇談会での議論をリードされた前水俣市長である吉井正澄氏、そして退官まで水俣病関西訴訟に関わった元・最高裁判事、亀山継夫氏がそれぞれ講師として招かれ懇談会提言を振り返った。私としては、被害者の救済という長期的な視野に立てば、必ずしも認定基準を作り直すことが重要ではないという亀山氏の発言が印象に残った。

水俣病はいまだ終わっていない。
これは参加者を含めた全員の共通認識である。
私たちの目前にいつまでも見えている光景は、もつれにもつれ、こんがらがった糸をどうほぐしていけばいいか途方にくれている行政や地域、そして被害当事者たちの姿であった。

実のところ、こんがらがった原因をたどることはそれほど難しいことではない。

しかし悪玉を見つけることと解決の道筋をつけることは全く別のことである。




・そもそもの汚染者はチッソだった。誰もが気がついていた。
・ところがチッソ工場の操業をやめることは国策としての経済成長を大きく阻害することも明らかであった。
・中央官庁は次々に狂い死にしてゆく辺境の民を見捨てて繁栄の道を猛進することを選択した。
・つまり原因者はチッソだが、水俣病の被害を拡大させたのは行政だった。
・ところが、原因者の責任、被害拡大の責任というふたつの責任を追及し、終局的に解決するプロセスである司法解決には途方もない時間がかかった。チッソの責任が確定したのは1973年のことであり、後者の行政責任にいたっては信じがたいことに半世紀を要し、04年の秋のことであった。
・その司法的解決を待つ間にも、加害企業と被害者、そして政治的な解決が模索された。司法解決などとても待っていられないからだ。73年のチッソとの補償協定によれば、公害健康被害補償法上の水俣病の認定を受ければ、半ば自動的に補償協定に基づく補償一時金1,600〜1,800万円を被害者らは受け取ることが出来ることになった(年間給付額約250万円)。
・この時点での問題は二つある。
ひとつは、補償金額が高額であり、原因企業の負担能力をはるかに越えてしまっていたことであり、もうひとつは被害拡大の行政責任が全く問われていなかったことである。
・前者の問題は、チッソの賠償倒産を食い止めるため、行政によるチッソへの金融支援の道を開いた。いわば国家が加害企業を支え続ける構図が始まった。さらに甚大な被害そのものが公健法上の認定基準のハードルを高めるインセンティブをもたらした。チッソの補償金額が高すぎるゆえに、行政が患者と認定する数を重症の者に絞りこまなかればならなかったのである。このねじれ自体は、あらゆる公害に共通するジレンマであった。

・しかし空前絶後の制度的な割り切り(足きり)は全く救済されない多くの被害者を放置することをも意味していた。大気汚染の指定区域設定を例に取れば、一本の道路をはさんで救済される者とされない者が分かれるという不合理な結果をももたらしていた。
・ここで重要なことは、この70年代の公健法による措置は、あくまで原因者(チッソ)負担の原則を前提としており、狂い死にし、地獄に突き落とされた辺境の民を見捨てたという行政の責任はこれっぽっちも前提とはされていなかったことである。
・もし、チッソに賠償資力がないゆえに、認定患者数を絞り込まなければならないという理屈であれば、公健法上の認定基準の高いハードルはかろうじて正当化しうるかもしれない。なにしろ、限られた資力ですべての被害者を完全に救済することは不可能なのだから。

・ところが、原因を作り出したのはチッソだが、被害を拡大させたのは実は行政だった、というのが水俣病の第二の問題であった。被害者救済のために原因者にジャブジャブと金融支援をし、被害者に対する福祉政策を立案してきた行政が実は被害拡大のA級戦犯であった。行政の不作為責任を断罪した04年の最高裁の認定を前提とするとどうだろう。「原因者の限られた資力」という前提は崩れさるだろう。そして、司法的認定までの暫定的な措置としてつくられた公健法の認定基準そのものが崩壊すると言わざるを得ないだろう。04年、果たして最高裁は公健法の認定基準とは異なった基準でメチル水銀中毒症と認定し、50数名の原告被害者に対して、400万円〜800万円の損害賠償額を認容した。

・こんがらがる糸はもうひとつある。この行政の責任を追及する関西訴訟を継続するさなかに成立した政府との和解(いわゆる95年政治解決)によって、公健法とも異なる基準によって一時金260万円(年間約35万円給付)を受け取った一万一千人の被害者、04年最高裁判決後に行政が救済策としてつくった新保険手帳の該当者(年間約12万円給付)とのバランス。公健法の認定をうければ年間250万円である。結局、全部で三つの基準があることになり、それぞれの給付の経緯、根拠、認定の性格、給付主体すべて異なる。

・そもそも公健法は終局的な解決である司法的解決を待つ途上で暫定的に被害者を救済する行政措置である。そのくさびが、まがりなりにも金銭をもって救われる者と何一つ救われない者とを引き裂き、しかも行政の責任が黙殺されていたおかげで、救済されない被害者に裁判を継続するモチベーションを与えた。裁判組の被害者たちが04年ついに行政の責任を認めさせ、公健法よりも低いハードルで水俣病の事実認定を受けたために、本来救済されるべき被害者たち約1千人が次々に訴訟を提起し、さらに約4千人が新たに認定の申請をした。現在、認定審査会は一年半も構成されず機能麻痺状態である。

・結局、原因者負担という原則のもとで、1800万円のチッソの補償金を受け取るに値する水俣病患者を絞り込むための認定基準そのものが水俣の被害者、そしてコミュニティを引き裂く諸悪の根源だったといわざるを得ないのだが、悪玉を見つけ暴き、これまでの基準をご破算にすれば、自然に糸がほぐれ解決するほど甘いものではない。

・たとえ従前の基準をご破算にしても、ご破算にする前の措置と新しい基準とのバランスをとらなければならないから、結局、旧認定基準と対峙しなければならず、あらたに糸がこんがらがるだけなのである。



いったい、行政は、水俣病を拡大させた責任をいかに取ろうとしているのだろうか。
その具体的な素描を知りたい。この提言はそのための示唆を与えるものとなるだろう。

この点、環境省水俣病懇談会そのものは画期的ともいえる議事録を残している。
亀山氏や柳田氏が指摘していたことだが、中央官庁がこれだけ率直に自らの過ちを認め、資料として議事録に残したことは驚くべきことである。
http://www.env.go.jp/council/26minamata/y260-05.html参照
例えば上記の第五回懇談会では、当時の通産省全体として経済成長のために辺境の地で人命に犠牲が出てもやむをえないという強い意思があったと明確に指摘している。
こういう発言は患者運動をする側や水俣病を告発し、社会政治的な視点から実態を研究するアカデミズムの側から提起されつづけてきたことであったが、行政がそのままズバリ認めたことは一度たりともなかったことであった。
ある意味で、環境省の役人はアグレッシブなまでに自らの過去を反省する姿勢を示している。

ところが、その同じ環境省が認定基準については一切妥協しない。基準を変えることがさらなる混乱を招来し、結局、当事者の幸福に決して結びつかないと考えているからだ。
この理屈には一理あるとしても、しかし、認定基準が欺瞞に満ちたものであったことくらいはちゃんとはっきりさせるべきである。
そのうえで、行政は、裁判で認定されたチッソとの1/4の連帯責任をどのように果たしていくべきかについて、もう少し新たな方向性を示すべきではないだろうか。

認定基準は不合理ではない、という突っぱね方はやめて、今となっては不合理だったと認めざるを得ないが、それをいまさら変更する利益は乏しいという説明をすべきなのだ。
行政が嘘をついたままで、現状が打開されるとも思えない。


提言は被害者の補償問題についてこうまとめている。

① いわゆる「認定基準」は、「患者群のうち、(公健法上の、及びチッソとの補償協定上の)補償額を受領するに適する症状のボーダーラインを定めたもの」(大阪高裁判決。最高裁判決において是認)と理解されるのであり、また、そのような意味合いにおいてはなお機能することができるといってもよい。したがって、「認定基準」を将来に向かって維持するという選択肢もそれなりに合理性を有しないわけではない。
しかしながら、一方、水俣病被害問題をこの「認定基準」だけで解決することはできないということも、これまでの事実経過(「認定基準」とは異なる基準を用いて、「政治解決」を図らざるを得なかったこと、「認定基準」とは異なる判断の準拠を用いた国等の損害賠償責任を認める司法判断が確定していること、最高裁判決後、大量の認定申請者・訴訟提起者が続出していること、「認定基準」を運用すべき審査会が1年半以上も構成されず、認定申請者が放置されていること等)に照らし、あまりにも明らかである。
そこで、今最も緊急になされなければならないことは、補償協定上の手厚い補償を必要とする患者が今後も出てくるかもしれないこと、補償協定に基づく補償を受けてきた患者の法的立場の安定を考慮する必要もあること等の理由から、「認定基準」をそのまま維持するにせよ、この「認定基準」では救済しきれず、しかもなお救済を必要とする水俣病の被害者をもれなく適切に救済・補償することのできる恒久的な枠組みを早急に構築することであろう。

② この枠組みの構築に当たっては、ア)新たな枠組みによっても却下された人々が、後に司法判断で認められるというような事態をできる限り回避しうるものにしておかなければならない。
イ)従来の救済策によって救済・補償を受けている人々の権利ないし法的地位を侵害しないよう十分に配慮するとともに、歴史的経過からやむなく異なる時期、異なる枠組みにより異なる救済・補償を受けることとなる人々の間の公平感、均衡を保つように留意する。
ウ)新しい枠組みでは、いわゆる「汚染者負担の原則」からチッソが救済・補償の主体となるにせよ、最高裁によって国の行政責任が明確に認定されたことを何よりも重視すべきであり、国が救済・補償の前面に立つしくみにすべきである。
エ)新たな枠組みは、前回の政治解決の教訓に鑑み、将来に向かって開かれたものとして構築されるべきである。
オ)新しい枠組みでは、認定された「水俣病患者」と、それ以外のあいまいな呼称
の被害者とを包括的な名称で統一的にとらえられるようにすることが望まれる。

③ 従来の「認定基準」に基づいて認定─救済を求めている人々が4,300 人以上存在するにもかかわらず、これらの人々が、その多くは医療費等の支給を受けているとはいえ、審査会が構成されないという理由で、1年半以上も放置されているという現状は、早急に解消される必要がある。法律上の手続きに従って権利の救済を求めている人が正当な理由なく、このように放置されるようなことがあってはならない。これもまた、待たされる側の身になるなら、すなわち「2.5 人称の視点」に立つなら、躊躇は許されるものではない。

④ 新たな救済・補償に伴い、国は財政負担を強いられることになるが、国全体が経済成長の恩恵を受けその陰で犠牲になった人々への償いととらえるなら、「汚染者負担の原則」に基づく原因企業の負担は当然にしても、国民の税金を財源とする一般会計から応分の支出をするのも当然のことと考えるべきであろう。

私たちは最後の一文を消化して認めていけるだろうか。
これは、国民一人ひとりのパブリックな事柄に対する構え方、あるいは我々という一人称複数のアイデンティファイのあり方、私たちとはいかなる存在であったか、私たちの生活は何によって支えられ、どのような主体と関係をもっているか、そして我々はいかなる存在であるべきかが問われている問題なのである。

この提言が、忘れされれる運命にあるか、次の内閣に受け継がれ、そして新たな立法が画策されるかは、私たち自身の関心の持ちようにもかかっていることは疑い得ない。

経済企画庁 調整局水質調査課課長補佐(通産省から出向)の証言
通産省の官房審議官に呼び出されて、排水を止めた方がいいのではないかと言ったところ「何言っているんだ。今止めて見ろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はあり得ない。ストップなんてことにならんようにせい」と言われたということだが】うーん。まあ、飯を食いながらそういう話が出たかもしれませんね。(第5回水俣病問題に係る懇談会資料2より 昭和34年末の行政不作為について〜当時の関係者の関西訴訟における証言を中心に〜